信心に僧俗の差別はない
一生成仏には、年齢、立場、性別、信心歴などは全く関係ない。
あくまでも信心の深さで成仏が決まる。
大聖人ご在世当時、僧侶であった大進房、三位房などは慢心、怨嫉、臆病のゆえに
退転し大聖人に弓を引いた。かの五老僧は、大聖人から「本弟子」と定められていたにも
かかわらず、大聖人亡き後「住坊を破壊する」との脅しに屈し、臆病にも""天台沙門""と名乗って保身をはかった。
しかし、おそらく大聖人と直接あったこともないであろう一農民信徒である神四郎、弥五郎、弥六郎は平左衛門尉の責めに屈することなく、大聖人と同じく不惜身命の信心を貫き、殉教していった。
僧でありながら退転していった者たちと、一農民信徒でありながら信念を貫き殉教した三烈士と、どちらが本物の大聖人の弟子か、答えは明白である。
よって宗門が「僧俗には大聖人の仏法に即した本来的な差別が存するのは当然」(1991・1 藤本日潤から学会に送られた文書) などと主張するのは「心こそ大切なれ」といわれた大聖人のご精神がまったく理解できていない証拠である。
信心の世界は、立場は関係なく、あくまで【師と同じ心で戦えているか】が大切なのである。「このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をただして、ほとけ(仏)になり候、しでし(師弟子)だにも、ちがい候へば、おなじほっけぇ(法華)を、たもち、まいらせて、候へども・むけんぢごくにおち候なり」
ーこの法門は、師弟の道を正して、仏になるのである。師弟の道を誤ってしまえば、同じく法華経を持ちまいらせていても、無間地獄に堕ちてしまうのであるー
日興上人
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