極悪と戦えば極善となる

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今の大石寺に日蓮仏法はない

今日、4月28日は立宗の日。
日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え、""法華折伏 破権門理""の旗をかかげ、三類の強敵との闘争を開始された。


そして、「日蓮と同じく」P903 「日蓮がごとく身命をすてて強敵の科を顕せ」p1589
と弟子たちにも自分と同じく強敵の科、魔を駆り出して""師子王の心""で戦うように促されている。


御書をきちんと学んでいれば、
「大聖人直結などという考え方自体が、本宗にはありません」
(1995・2月 阿部日顕の発言)
などという言葉がでてくるはずがないのだ。


法華経方便品には、仏がこの世に出現した目的(唯一大事因縁)は、「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」、衆生の中に内在している仏知見を開かせ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らせることだと説かれている。(欲令衆生開仏知見 P244) 


また、「我が如く等くして異なる無し」P246、衆生を仏と同じ境涯にまで引き上げたいというのが釈尊の願いでもある。


したがって、以下の阿部日顕の
「仏智というものは、民衆が分かるはずがないんですから、ボンクラどもが千人おるよりも、仏様一人のお考えのほうが正しいんです」


「あのねー、ミーチャンにもハーチャンにも分かるようによ、ペコペコよ、頭下げて説いてたらよ、本当の法なんて説けやしないんだ」


「民衆、民衆って言う奴ほどバカなんだ」
(1994・8月 教師指導会)


これだけの暴言の数々を見るだけでも「一切衆生皆成仏道」の法華経を説いた釈尊の精神からもほど遠いことがわかる。


凡夫はいくら修行しても偉大な仏になれないというのであれば、
法華経本門どころか法華経の迹門でもない、「一念三千の法門」を完全に無視しているこ
とになる。


今の大石寺に日蓮仏法はないどころか法華経の精神すらない。
ただのおすがり信仰に堕している。