極悪と戦えば極善となる

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化法についてⅡ(梵我一如さんのご質問に対する考察)

次に【今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり】(御書P1023)と仰せの「此の法門」=「一念三千」の中核となる『十界互具』について考えてみたいと思います。
十界互具は、従来の九界を嫌い、そこから離れて成仏するという「厭離断九」の考えを覆す画期的な法理であり、この「十界互具」を無視して日蓮大聖人の本尊観は語れないと思っています。



十界互具の文証(御書P240~)


【衆生をして仏知見を開かしめんと欲す】(御書P240)は、法華経方便品の「欲令衆生開仏知見」の読み下しで、開示悟入の四仏知見のうちの「開仏知見」の文。‘’仏は、衆生(凡夫)の中にある仏の知恵を開かしたいと願っている‘’という意味ですが、「開かしめん」と経文にあるのは、我々凡夫(九界の衆生)に、もともと仏の智慧の境涯がそなわっていて、それを開いて顕すことができる、ということを示しています。(九界所具の仏界)



【是くの如く我れ成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず・・・(略)復上の数に倍せり】(同)



法華経寿量品のこの文は、仏が過去に菩薩道の修行をして仏になったこと、その仏の生命に菩薩の生命(九界)もつきることなく具わっていて、悟りを開いて仏になっても、九界を消しさり、離れたわけではないことを示されています。(仏界所具の九界)



九界の衆生にも「仏界」は具わっていて、それを開いていけば成仏できること、また、すでに仏界を開いて成仏した仏であっても、九界を離れているわけではないこと、
法華経方便品の「九界所具の仏界」、法華経寿量品の「仏界所具の九界」、



この二つを示す文証から、「仏」とは、何か超越的な、雲のうえの特別な存在ではなく、あくまでも九界の生命ももった「人間」のことなのだということがわかります。


                               (続きます)



追記 ①のご質問に対する考察は、既にネット上においては議論され尽くされてきた、人師・論師の解釈の引用をせず、大聖人の言葉(御書)のみの引用とさせていただきます。