極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

化法についてⅣ

しかし、我々凡夫の己心に仏界が具わっているといっても、それを湧現していく「縁」が必要になります。大聖人は以下のように仰せです。


機根には二種類あり、


・仏に直接会って法華経で得道する者
・仏に直接会わなくても法華経によって得道する者


また、過去の下種によって、法華経以外の浅い教えでも、それを「縁」として「正見」に入る者もいると仰られています(教外の得道)。


仏教以外の信仰をしている人でも、


「神は、遠くにいるのではない。神は自分の中にいる」


と「内道」の生き方ができる人は、これにあたるのでしょう。



余談になりますが、キリスト教徒であるローレンス・エドワード・カーター牧師は、


『Baptist Preacher's Buddhist  Teacher』
【バプテスト(プロテスタントの教派)牧師の仏教の師匠】


という著作の中で、‘’私は池田先生を手本として、人間革命した‘’と述べられています。




化法についてⅢ

法華経方便品の文「欲令衆生開仏知見」、衆生の中にある仏の智慧を開かせたいということこそ、大聖人の願いであったと思います。そのために衆生の仏界の生命を移す「明鏡」として御本尊をあらわされた。


化法とは、内なる生命の実相を示した真理で、それを外にあらわされたのが御本尊であり、「観心の本尊」=己心(自分の心の中)の一念三千、仏性を観じるための外の本尊(明鏡)なので、【十界互具・一念三千】という【内なる法】が前面に出ることになります。


その理由は、


「妙法蓮華経を唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(御書P383)


「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」(同)


大御本尊を拝んでいても、また、たとえ創価学会員で日寛上人の御本尊に唱題していても「自分の心以外に法を求めて」、おすがり信心をしているとしたら、それは麤法(劣悪な法)であり、間違った崇め方をしているということになります。


観心本尊抄で前半、本尊の話をせず、まず一念三千・十界互具の文証をあげられ、


「あなたの心の中に仏界がある」


と繰り返し述べられているのは、【仏とは凡夫と隔絶した特別な存在ではなく、衆生自身が本来、仏である】いうことを気づかせたかったからだと思います。十界互具の法理は、『本尊⇒拝んだら(外の対象から)功徳がもらえる、といったような‘’偉大な神仏という、自分の外に絶対的な対象をおいて、それにおすがりして拝んだら(絶対的な外の対象から)功徳がもらえる』、という、従来の宗教観を覆すものであるので、「我々のような劣った凡夫の生命に、偉大な仏の生命が具わっているなどというのは、到底考えられない」(御書P241)と質問者は不信の言葉を述べています。




化法についてⅡ(梵我一如さんのご質問に対する考察)

次に【今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり】(御書P1023)と仰せの「此の法門」=「一念三千」の中核となる『十界互具』について考えてみたいと思います。
十界互具は、従来の九界を嫌い、そこから離れて成仏するという「厭離断九」の考えを覆す画期的な法理であり、この「十界互具」を無視して日蓮大聖人の本尊観は語れないと思っています。



十界互具の文証(御書P240~)


【衆生をして仏知見を開かしめんと欲す】(御書P240)は、法華経方便品の「欲令衆生開仏知見」の読み下しで、開示悟入の四仏知見のうちの「開仏知見」の文。‘’仏は、衆生(凡夫)の中にある仏の知恵を開かしたいと願っている‘’という意味ですが、「開かしめん」と経文にあるのは、我々凡夫(九界の衆生)に、もともと仏の智慧の境涯がそなわっていて、それを開いて顕すことができる、ということを示しています。(九界所具の仏界)



【是くの如く我れ成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず・・・(略)復上の数に倍せり】(同)



法華経寿量品のこの文は、仏が過去に菩薩道の修行をして仏になったこと、その仏の生命に菩薩の生命(九界)もつきることなく具わっていて、悟りを開いて仏になっても、九界を消しさり、離れたわけではないことを示されています。(仏界所具の九界)



九界の衆生にも「仏界」は具わっていて、それを開いていけば成仏できること、また、すでに仏界を開いて成仏した仏であっても、九界を離れているわけではないこと、
法華経方便品の「九界所具の仏界」、法華経寿量品の「仏界所具の九界」、



この二つを示す文証から、「仏」とは、何か超越的な、雲のうえの特別な存在ではなく、あくまでも九界の生命ももった「人間」のことなのだということがわかります。


                               (続きます)



追記 ①のご質問に対する考察は、既にネット上においては議論され尽くされてきた、人師・論師の解釈の引用をせず、大聖人の言葉(御書)のみの引用とさせていただきます。