極悪と戦えば極善となる

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学会に評論家はいらない

新人間革命 第18巻 獅子吼の章


 伸一が最も粘り強く指導・激励を重ねたのは、愚痴や文句の多いメンバー(聖教新聞社勤務の職員) に対してであった。彼は、そうした記者の意見をすべて聞いたうえで、諄々と訴えた。


 「もし、学会に批判があるなら、ただ文句を言っているのではなく、君が自分で、理想的な学会をつくっていくことだ。私もそうしてきた。自分は傍観者(ぼうかんしゃ)となり、ただ批判をしているだけでは、破壊ではないか。主体者となって立ち上がろうとしなければ、自分の成長も広宣流布の建設もない。同じ一生ならば、傍観者として生きるのではなく、広宣流布のために、学会と運命をともにしようと心を定め、力の限り戦い抜くことだ」


 また、仲間同士で集まって酒を飲んでは、先輩幹部の批判ばかりしている、二、三人の記者がいた。彼らは大物ぶっていたが、付和雷同(ふわらいどう)的な傾向があり、自分を見つめる姿勢に欠けていた。


 ゲーテは断言する。


""きみが誰とつきあっているか、言いたまえ。そうすれば、君がどのような人間であるかを言ってあげよう""


 「批判は簡単だ。では、自分に何ができるのだ。真剣に自分を磨くことを忘れてはいけない。不平不満は自分を惨めにするだけだよ」


 文句ばかり言っていた記者も、自分の言動を恥じ、学会を担う誇りに燃え、果敢に学会活動にも励むようになった。


 なかには、伸一が真心を尽くして、指導、激励を重ねても、学会を見下し、広宣流布を忘れ、批判を繰り返す者もいた。しかし、やがて彼らは、誰からも相手にされなくなり、皆、自分から職員をやめていった。清らかな信仰の世界では、悪心の者は、その醜悪なる
正体が明らかになり、出ていかざるをえないのである。


 広宣流布をめざす清浄無比(せいじょうむひ)なる異体同心の連帯が聖教であり、本部である。ゆえに、悪を絶対に許してはならない。


 「悪人は叩き出すのだ! そうでなければ学会が蝕まれてしまう」


 それが戸田城聖の叫びであった。

ずうずうしく 図太く たくましく


以下、於保クリニック所長 於保哲外(おぼてつがい)氏の言葉を一部抜粋


 よく池田先生が『ずうずうしく図太く、たくましくいこう』と『口八丁、手八丁でいくんだ』とおっしゃられていますが、それが正しいんですね。だから今の世の中、『悪がのさばっている』といいますが、悪がのさばっているのも問題なんですが、『いい人が自分を殺す』という間違ったことをしている事のほうが見えにくいだけに、もっと問題なんですね。


 だから、これからは、真面目な人が、善い人が、思いやりのある人が、心が優しい人が、もっともっと言いたいことをズケズケ言っていく。正義を主張していく。勢いを増していく。そうなっていくと、今のさばっている自分さえよければいいという人たちが、肩身が狭くなっていくでしょう。


 実は、この日本文化、真面目というのが、先ほどから言っている「村の文化」なんです。出過ぎた真似をすると、村八分になるんです。白黒はっきりさせる人は嫌われるんです。・・・(中略) 村の文化というのは、非常に世間体を気にし、また保守的で、そして自分の意見は言わない。表面はにこにこしていても本音は違う。建前と本音を立てわけるという特徴があるんです。


 もう一つの日本文化がある。これを「海の文化」というんです。
(野茂選手がアメリカの大リーグにいくとき)日本のマスコミはこぞって叩きましたね。「なんでいくんだ」と反対しました。しかし、野茂は淡々といきました。野茂は大阪生まれだそうです。しかし両親は五島列島の出身なんですね。この「海の文化」というのは、非常に自立的ですね。そして非常に活動的かつ開放的なんです。


 日蓮大聖人は『旋陀羅(せんだら)が子』といって『漁師の子』なんです。すなわち海の文化なんです。『旋陀羅(せんだら)』というのは、サンスクリット語で""チャンダーラ""です。すなわちカースト制度の最下層の子供であるということを誇りにされたんですね。
その時代の最下層ですからね。


 かたや、大聖人が戦った相手は、国家権力の最高峰なんです。なんの後ろ盾もなく、それと真っ向からぶつかる。これはすごい対比だと思うんです。まったく身分とか、権力を持たない大聖人と、方や権力の最高峰。ぶつかりあって、大聖人が『わづかの小島の主らが』という言い方をされる。これは村の文化のひとは、畏れ多くていえない言葉ですね。
海の文化の大聖人にしていえる言葉だったんです。


 ところが、この大聖人の仏法が大聖人亡き後、お山の宗教になるんですね。村化していくんです。村の文化に毒されていくんです。それが行き着いた先が『法主絶対』。したがって我々が行っても『お目通りかなわぬ身』と。そういう発想になっていくんです。
この階級制が強いというのも「村の文化」の特徴です。昔の村というのは、小作人だと、庄屋さんの土間に這いつくばらなければならなかったんです。門を建てていい家と悪い家があるんですね。服装までも身分で決まってしまう。


己心の仏界を開かせるための御本尊

 御本尊については、信仰の根幹にかかわる非常に大事なことなので、軽々しく論ずることはできないが、あえてここで「私見」を述べさせていただく。


 大聖人は、こう仰せである。


『此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』御書P1244


 御本尊を「余所(よそ)に求めてはならない」と。
我々の中に、偉大な生き方をされた大聖人と同じ『仏の生命』がある。
それに気づかせるために『曼荼羅(まんだら)』として御本尊をあらわされた。


 我々はよく「御本尊から功徳をいただく」といい方をするが、
正式には「唱題をすることにより、己心の仏界が開いて、自分が功徳を出して」いるのである。


 『南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団』と仰られているように、御本尊は自分自身の中にある。だから、それを悟ったひとは他人や環境にふりまわされない""内道""の生き方ができる。


『夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我れ等がむねの間にあり、これを悟るを仏といふ・これをさとるは法華経なり』御書P1504


 このように、幸不幸の原因は「自分自身」にある、と悟ることが仏である、と仰られている。これを『内道』という。


 それ故、一念三千の御本尊を外にみたら「外道」になるのである。
御本尊に『おすがり信仰』してはいけないといけないといわれる所以はここにある。
自分の中にも大聖人と同じ仏界が具わっている。
それを強く自覚して唱題することが大事である。


 大聖人が『人本尊』というれる所以は、法華経に説かれる通りに大難にあい、妙法をひろめていったからである。折伏をし、難にあっているか、魔が競いおこっているかどうかで、その人が如説修行の人か否かを判断することができる。


 牧口先生、戸田先生は法のために獄に入り、特高刑事に殴る蹴るの暴行を受けている。
在家の信者がこのような大難をうけているのに、この時、宗門は弾圧を恐れて創価教育学会信徒を除名処分にした。


 日蓮正宗の僧の中にも獄に入り、法に殉じて亡くなった「蓮城房」(れんじょうぼう)という僧侶がいたのだが、宗門は、なんと保身のためこの僧侶の僧籍を剥奪し、切り捨てたのである。宗門の「切り捨て」体質は今も昔も変わっていない。


 この殉教した蓮城房(れんじょうぼう)という僧侶は生前、学会弾圧事件について次のように語っている。


『在家だけが法難にあってこれはおかしいんだ。僧俗一致して法難にあうというんなら話は分かる』


 日蓮正宗宗門では、「学会が授与する御本尊は法主の「開眼(かいげん)がない」から功徳はない」などと喧伝(けんでん)しているが、他宗にみられる開眼のような特別な儀式が必要などと御書のどこにも書いていない。


 大聖人は真言密教と対比し「此の画木に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり」P1145 と、開眼は法華経の力によるべきであると記されている。


 大御本尊を信徒支配の道具にした宗門は、「法主にのみ御本尊に関する権能(けんのう)がある」などと述べているが、法水(ほっすい)といっても、我々は「広宣流布への信心」によって御本仏日蓮大聖人から直接法水を受けているのである。信心のひとかけらもない法主から法水を受けているのではない。