極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

わたしの後悔 K兄ちゃんのこと

私には、K兄ちゃんという、知り合いがいる。
年は私よりだいぶ上で、小さいころはよく遊んでもらった。
温厚で優しい人で、怒ったのをみたことがなかった。



兄ちゃんは男子部で頑張っていた。私の実家が大変なとき、真っ先に激励にきてくれ、そして祈り続けてくれた。でも・・・。


その兄ちゃんが、ある日突然、おかしくなった。
実は兄ちゃんは、ずっと自分の母親のことをものすごく恨んでいた。
その恨みようは凄まじく、育ててくれて、信心を教えてくれた母親を家から追い出そうとしていた。私は、法華経の行者を苦しめた人が受けた仏罰の恐ろしさを見てきたから、恩ある兄ちゃんにそんな思いをしてほしくなかった。でも結局、いろいろ考えすぎて何も言えなかった。



あれこれ考えているうちに、兄ちゃんは本当に母親を家から追い出してしまった。
これには、本当に驚いた。まさか、本当に実行するとは・・・!


それから兄ちゃんは、精神に異常をきたした。
そして、兄ちゃんが一番大切にしていたものを失った。


私は、仏法の因果の厳しさをみたと同時に激しい後悔の念にかられた・・・・。
(あのとき、勇気をだして「恩知らずな行為はやめなさい!」と言っていたら・・・厳しく破折していたら・・・兄ちゃんはあそこまで苦しむことはなかったかもしれない・・・。) この時の後悔が、自分の謗法呵責の原点になっている。


『慈無くして 詐(いつわ)り親しむは 即ち是れ 彼が怨(あだ)なり』(御書P237)


相手を思う慈悲の心がなくて、自分が嫌われるのを恐れ、正しいと思うことも言わず、その人と「詐(いつわ)り親しむ」ことは、それはその相手にとってかえって害をなすものである。


『彼が為に 悪を除くは 即ち是れ 彼が親』(御書P237)


彼のために悪を除(のぞ)いてやるのが、彼の真の親である。


大聖人の折伏行、謗法呵責の精神は『親心』、人々を救っていこうとの大慈悲に基づくものである。


自分が正しいと思うことは、勇気を出して語っていく。これが本当の友情である。
その時は、反発され嫌われるかもしれない。恨まれるかもしれない。しかし、いつか必ずその人から感謝されるときがくる。戸田先生は""折伏すれば信用が残るよ""と仰られた。



悪を滅するを功と云い 善を生ずるを徳と云う


立正安国論の本文に入る前、宗門問題のことに触れ、
""日顕のような師匠に値しないような人間は御書を語る資格はなく、
御書の通りに現実に難にあい、獄に入り、広宣流布を進めた池田先生こそ御書を「身で」読んだ人なので、「師匠の心」と「我が心」を合致させないと、御書を正しく拝したことにならない""と語った。


「日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい。そして魔が起(おこ)らないで、人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。然らば魔が起(おこ)るか起(おこ)らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」(牧口常三郎全集10)


このように初代会長牧口先生は、魔がおこらない宗門の信心の在り方に疑問をなげかけられているが、日顕は折伏弘教に励んで三障四魔がおこるどころか、仮にも日蓮正宗の法主というトップの座にいながら、芸者遊びにうつつをぬかし、売春婦とトラブルをおこす。こんな人間が「上人」と呼ばれ、人に指導していたのだから(現在の法主は日如)、まさに『悪道に人をつかはす獄卒』である。


上記のように極悪を責めていくと、即効で自分の中の魔が切れていく。
私は、前記事でも述べたように鬱など、念仏の害毒に何年も悩まされていた。
特に朝の憂鬱感は半端なく、動くのがおっくうでご本尊の前に座るのも辛かった。


しかし、立正安国論の御書講義中、三類の強敵・僭聖増上慢を指している
『阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂(おも)いて人間を軽賤(きょうせん)する者有らん・・・』(御書P21)の部分で,日顕の悪行を片っ端からあげていった翌日、モヤモヤしていた頭がスッキリして早朝からパワフルに動けた。


今まで朝つらくて動けなかったのに、急にどうしてだろう?と不思議に思って首をかしげていたが、ふと『極悪と戦えば、自身の細胞が極善となる』と聞いたことを思い出し、
""そうか、昨日の御書講義で日顕の悪事を責めた功徳だ""
と思い、喜んで感謝の唱題をした。


【悪を滅するを功(く)と云い善を生ずるを徳(とく)と云うなり】(御書P762)


池田先生はこの御文を通し、次のように述べられている。
「いくら善を積もうと思っても、それだけでは善を積めない。悪を責めることによって、自分自身の生命の罪も滅し、福徳が生じる。これが「功徳」である。」
師匠の仰せの通りに、これからも勇気をもって悪と戦っていく決意でいる。



一歩も引いてはならない。戦う時なんだよ。


日顕の正体-戸田第二代会長の言葉



戸田先生の慧眼は、現在の宗門の姿を見抜かれていたようである。


『大聖人様の御時代に、あるいは良観とか あるいは法然の弟子とかそういう者(の弟子などになる連中)は、一体どういう奴かというと、昔、仏法をくさした、その外道の者が生まれてきて仏法をやってですね、そうして今度は正法を邪魔するんです。そうすると今度 どうなるか。あいつら死ぬと、今度、日蓮正宗の中に生まれてくるんだよ。誠にこれ
は、おもしろいもんだぞ。』(S31年2月7日 佐渡御書講義 於 中之島公会堂)


戸田先生は亡くなる前、
『宗門に巣くう悪とは、断固、戦え。いいか、伸一、一歩も退いてはならんぞ。・・・・追撃の手をゆるめるな!』(人間革命第12巻 寂光)と池田先生に遺言された。


「創価学会に教義はなく、もともとは日蓮正宗の講のひとつで、牧口会長も法華講の三谷氏から折伏を受けたのに、その恩を忘れ、宗門に弓を引いている」、と主張する人もいる。しかし、恩があるからこそ学会は『日興遺誡置文(にっこうゆいかいおきぶみ)』に反する獅子身中の虫、「謗法を呵責せずして遊戯雑談(ゆげぞうだん)」に明け暮れてる悪侶を責めていったのである。


日興上人は「日興遺誡置文」で「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有る可からず」(二十六箇条のうちの一箇条でも破った者は、日興の弟子ではない)と断言されている。


日蓮大聖人は、「謗法の僧を厳しく対治(たいじ)することは罪になるか」との問いに、
涅槃経の文を引いて「必ず厳しく対治しなさい。全く罪などない」(御書P85)と明快に仰せである。


池田先生は、この「災難対治抄」の御文で、悪を責めることに対して以下のように指導されている。


『苦治(くじ)』(御書P85)すなわち、仏敵が苦しむほど厳しく対治してこそ、祈りは叶う。泥を捨ててこそ、清水が飲める。雲を払ってこそ、太陽の光を浴びられる。ガンは切除してこそ、薬も効き、健康になる。極悪は徹底して""強く""責めなければいけない。この御文に照らして""責めすぎる""ということはない。ー1992・11・2ー
(輝きの人間世紀へ 御書とその心 池田大作)