極悪と戦えば極善となる

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日蓮正宗の戦争協力と謗法の数々

 戦時中、軍部政府を恐れて御書を削除し、戦争協力した日蓮正宗宗門。


昭和16年8月、第62世 鈴木日恭(すずきにっきょう)法主は勤行のご観念文の変更を知らせる「院達」をだした。天皇と国家神道を讃嘆(さんたん)する内容に書き換え、さらに""現今の社会情勢では、大聖人の尊王護国(そんのうごこく)の精神が誤解される""と、御書全集の発刊も禁止し、14ケ所の御文も削除した。


 昭和17年10月には、伊勢神宮(いせじんぐう)への遥拝(ようはい)を全末寺に徹底。


昭和18年5月、「神札不敬」で牧口先生が中野警察署で取り調べをうけるのをみて、弾圧が自分たちにも及ぶことを恐れた宗門中枢は、牧口先生、戸田先生以下7人の幹部を本山によびだし、神札を受けるようにせまった。


『承服いたしかねます。神札は絶対に受けません』


 牧口先生は、同年7月6日、折伏のため訪れていた伊豆下田で逮捕、殉教の道を選ぶ。


 一方、在家の者が法難にあい入獄しているというのに、宗門は保身というレベルを超えて、戦争協力へと暴走していく。
 


『静岡新聞』は、「宗教参戦に邁進の大石寺」「総本山大石寺 寺院道場を開放」「宗教家も戦列へ 大石寺一門の逞しい奮闘」などの見出しで、宗門の積極的な戦争協力を報じている。当時の宗門機関紙『大日蓮』には、宗内行事で戦勝祈願を行い、僧俗を戦争にかりたててていった様子が報じられている。


  しかし、仏法は誠に厳しい。御書の発刊を禁止、御文を削除し、神社への遥拝を進め、創価教育学会の信徒を除名にし、そのうえ正宗の僧でたった1人入獄し、殉教した藤本連城房の僧籍も剥奪(はくだつ)した、62世法主・鈴木日恭は、悲惨この上ない末路を迎えた。


 昭和20年6月17日、午後10時30分ごろ、大石寺の対面所裏より出火、対面所、客殿、大奥、六壺などが焼け、翌18日の4時まで燃え盛った。焼け跡から、日恭の焼死体がみつかる。無残なことに、下半身と腸は焼けず、上半身だけ黒こげになっていた。
峻厳な因果の理法からは、誰人たりとも逃れられない。


  
 

謗法を容認する日蓮正宗中枢

『謗法と同座す可(べ)からず与同罪を恐る可き事』
『謗法の供養を請(う)く可(べ)からざる事』 日興遺誡置文P1618
                    (にっこうゆいかいおきぶみ)




 以前、大石寺檀家総代(だんかそうだい)が、日蓮正宗の信者にもかかわらず、なんと神社の氏子総代(うじこそうだい)をも兼務していた。静岡県富士宮市内にある曽我神社(そがじんじゃ)の氏子総代をしていた井出(いで)氏は、神札の購入を奨励し、数々の謗法を平然と行っていた。



 このことが発覚後、井出氏はこっそり氏子総代を退いたものの、その後も三宮神社の祭礼に参加。



 現法主である日如(にちにょ)は、7月16日付の『大白法』で""(神社には)悪鬼魔神が住みつく" "そんな場所に詣でたり、祭礼に関われば、謗法与同となり、災難と不幸に見舞われてしまう" "悪鬼魔神の片棒をかついでしまったという業が、その人の命に刻まれる" 等々、述べている。


 その割には、神社氏子総代を退いても神社に参詣している井出氏に対して、諫めるでもなく、何の処分もしておらず、同氏は平気で現在も大石寺檀家総代を続けている。一信徒ではない「大石寺の檀家総代」の謗法を見て見ぬふりとは、一体どういうことであろうか。


『謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋(たず)ぬるが如し』
                             御書P1056


 謗法呵責(ほうぼうかしゃく)は成仏の直道である。


宗開両祖である日蓮大聖人、日興上人は生涯、徹底して謗法を責め抜かれた。日興上人が『五人所破抄』(ごにんしょはしょう)を弟子の日順に書かかせたのは、身延離山から40年後である。大聖人の法を勝手に曲げた師敵対(してきたい)の五老僧を最後まで許していない。


 日興門流を名乗る管長であるならば、日興上人の遺誡を守り、しかるべき処置をとるべきであろう。


 ""謗法まみれの檀家総代""を放置している管長。


これは、大白法で日如が自ら述べた通り『謗法与同』となり『悪鬼魔神の片棒をかついで』しまっているということになると思うのだが・・・。


 御書は『身口意の三業』で拝していかねばなるまい。
いくら口で「謗法厳戒」を叫んでも、謗法を放置、容認しているのは、言っていることとやっていることがチグハグな、"身口意不相応" という他ない。


仏罰の恐ろしさ

『過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民
       始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず』 御書P1190



(過去、現在の末法の法華経の行者を軽蔑したり賤(いやし)んだりする王、臣、人民は、はじめは事がないように見えるが、必ず最後は因果の理法により滅亡の悲運に落ちないものはない)



 この信心は、功徳も大きいぶん、罰(ばち)も途方もなく大きい。


 以下、今まで自分が見てきた健気に純粋に信仰に励んでいる学会員をいじめたり、苦しめたりした人が受けた仏罰の例をあげておく。なお、プライバシーに配慮するため、具体的な表現はできるだけさけていく。


 ・学会員を自分の欲望のため利用したある会社の管理職の者は、不正が発覚、自主    退職に追い込まれる
  
 ・学会員をいじめたある男性はトラブルに巻き込まれ全身に大怪我を負い、数年後に身  内を惨殺される。


 ・怨嫉し、同志を苦境に追いやった学会員は、頭破作七分状態となり、身内が突然死


 ・宗門側につき、同志の悪口を近所の人に言いふらしていた元学会幹部が
  突如、交通事故にあい命を失う


 ・嫉妬が原因で女子部員を苦しめた若い女性は、彼氏ができた直後、その相手が事故死



 また、他にも思い出したら書いていくが、このように『命にかかわる』ほど、法華経の行者を見下し、苦しめた罪は深いのである。私がみてきたケースでは、""自分が
一番大切にしている人""に出る(配偶者、子供、親、恋人など)場合が多かった。


 だから、謗法をする者をみたら厳しく戒めていかないといけないのである。
たとえ親兄弟であってもである。でないと、自分も""与同罪""となってしまう。


『慈無くして詐(いつわ)り親しむは 即(すなわち)ち是れ彼が怨(あだ)なり』御書P237


(相手を思う慈悲の心がなくて、いつわり親しめば、かえってその相手に害をなすものである)