極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

悪を打ち破ってこそ"善悪不二"

『悪を、おとなしく受け入れる者は、悪を助ける者と同じく悪に加担することになる。悪に抵抗しない者は、悪に協力したことになるのだ』
   
                       (マーチンL・キング)


『善に背(そむ)くを悪と云い悪に背くを善と云う』御書P563



 仏法は十界互具であり、
釈尊の己心にも提婆達多の生命がそなわっていて、極悪の提婆にも仏の生命がある、とみる。法華経提婆達多品には『悪人成仏』が説かれている。


 悪人にも『仏の生命』があるのに、""そこまで責める必要があるのか?""という疑問をもっている学会員の方は多い。かつての自分がそうであったように。


 この点については、池田先生はこのように明確にご指導されている。


【仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ、提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、提婆が善知識であったとは、とても言えない。】




【悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然に放置していて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚(かんぷ)なきまでに打ち勝って、はじめて善悪不ニになるのです】



【その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の境涯の高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです】



【成仏するには「内なる悪」に勝利しきらなければならない。そのためには具体的には「外なる悪」と戦い、勝たねばならない。悪と戦うことによって、生命が鍛えられ、浄められ、成仏するのです。極悪と戦うから、極善になるのです。自分の生命をきたえ、成仏させてくれるという本質論から見たときには、その極悪も師匠とさえ言えるのです】
                   (法華経の智慧 第三巻 悪人成仏より)


善悪不二(ぜんあくふに)、邪正一如(じゃしょういちにょ)など、この仏法用語の意味をはき違えて「善も悪も、正も邪も肯定」しているひとがいる。しかし、これだとやりたい放題、言いたい放題の悪人をのさばらせてしまう。


女子部の先輩から
『池田先生が週刊誌などで叩かれていることについてどう思うか?』
と聞かれたことがある。


私は、つい、
「よくわからない」
と答えてしまった。


先輩は、目に涙をためて「情けない」と言い、


「もし自分の実の父親が週刊誌に根も葉もないことを書かれたらどうする? 怒って反 論していくでしょう。」


この時は正直、なんでここまで怒られるのかよくわからず、(先輩、こわーい)と思っていた。でも、今では気持ちが痛いほど理解できる。自分の成長を願い、叱ってくれたこの先輩には感謝している。


日蓮仏法を学びながら平然と人間を軽賤する輩

『提婆達多は、人間を軽蔑し、厭悪(えんお)した。彼は自らあらゆる醜悪なる人間性の所有者、経験者であったために、凡(すべ)ての人間は彼の眼にさながら、汚穢(おわい)なる五臓六腑(ごぞうろっぷ)のままに見えた』(中勘助著 「提婆達多」)


 さて、この創価カテにも「提婆達多」さんのような『人間を軽賤(きょうせん)する』方がいらっしゃるようである。


 なぜ、アンチ創価を名乗りながら、わざわざ創価カテに登録し、愚痴めいたことを並べ立て、学会員のあげ足をとったり、悪口しているのだろう、と考えてみた。
きっと実生活において満たされていないのだあろう。幸せなら、わさわざネット空間で吠える必要はないからた。学会員を叩いて、ストレスのはけ口にしているにすぎない。



ここは、あなたたちが愚痴り、恨み言をいう場所じゃない。
とっとと、このカテから出ていきなさい。
人の読解力がどうのこうの難癖をつけるまえに、
自分自身の生命をみつめなさい。


正宗の信仰に確信をもち、歓喜しているならば、こんなところで
愚痴ってないで折伏にいってくればいい。
そしてその功徳の体験のひとつでもブログに載せてごらんなさい。



以下、8月14日付 今日の聖教新聞 新人間革命 雄飛 五十一より


『これまでに、実践なき偏頗(へんぱ)な教学に陥り、われ偉しと思い、傲(おご)り高ぶって、健気に信心に励む同志から嫌われ、退転していった人もおりました。まことに残念でならない。私たちは、いわゆる職業的仏教学者になるために教学を研鑽するのではない。自身の信心を深め、一生成仏をめざすためであり、広宣流布を推進するための教学であることを、あらためて確認しておきたいのであります。』


創価教学とは""実践の教学""であり、自他共の幸福を創造する生命の法理の探求である。


 


法華経の敵(かたき)を責めよ

【どんなに大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ、成仏できない】 御書P1494




 これは、末法今時における天台仏法の修行を破折された御文であるが、私どもの信心のあり方をも示されている。日々、仏道修行に励み、多くの善根を積んでいるという人がいる。また、教学の研鑽に励み、仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。しかし、いくら善根を積み、仏法を深く極めているといっても、正法正義(しょうほうしょうぎ)を破壊する敵と戦わなければ、すべて無意味なものとなる、成仏は絶対にできない、との厳しき仰せなのである。



【悪鬼とは、邪義を弘めた法然や弘法らのことである。其の身に入るとは、国王・大臣という権力者や万民などの身に入ることである。今、日蓮とその門下の南無妙法蓮華経と唱える者を、悪鬼が入った彼らが必ず恨み迫害するということである】P749



 今も、この仰せのとおり、『悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)』の者が、広宣流布を破壊しようとしている。戦わねばならない。この悪人と戦わなければ、知らず知らずのうちに自分も、『その身に入ろう』とする悪鬼の影響を受けてしまう。油断してはならない。
仏法は厳しい。悪鬼に完全に打ち勝たねば、結局は、自分が悪鬼の眷属(けんぞく)になっ
てしまうのである。



 日蓮大聖人は「鬼とは命を奪う者で、奪功徳者(だつくどくしゃ)というのである」と。



 日顕宗とその一派は『奪命者(だつみょうしゃ)』であり、『奪功徳者』なのである。地湧の菩薩の生命力を奪い(奪命者)、功徳を奪おうとする(奪功徳者)。彼らと妥協したぶんだけ、功徳と生命力を奪われる。彼らと戦ったぶんだけ、生命力と功徳が、いや増す。


   (輝きの人間世紀へー御書とその心 池田大作 ""悪との戦い""より)