極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

アンチが創価カテでブログする理由

例の日顕宗信徒もそうだったが、何故アンチがわざわざ創価カテにきてブログの記事を書くんだろう。いったい、何がしたいの?


その理由を考えてみた。


・単に愚痴を吐きたいだけ
・学会を誹謗して共感者を増やしたい
・脱会させて?自分側に取り込みたい
・池田先生、創価学会誹謗記事で注目を集めたい

表では学会を称賛 裏ではC作戦を画策していた日顕

 人を誑かし、信心を破壊する「悪知識」の性質について、日蓮大聖人は、『悪知識というのは、甘くかたらい、いつわり媚びて、言葉巧みに、愚かな人の心につけこみ、仏道修行に励もうというよい心を破壊するのである』(新・P10 全P7)と仰せである。


 甘い言葉を用いて、偽り、媚び、すり寄る「悪知識」に、決して騙されてはいけない。


 日顕は、裏では学会を切る「C作戦」(創価学会分離作戦)を反逆者・側近らと謀議しながら、学会から三重・仏徳寺の寄進を受け、「仏祖三宝にも深く御喜賞あそばされるところと存ずるのでございます」などと、学会を称賛していた。


 また、同時期に発刊された大白蓮華(91年・1月号)でも「新年の辞」を寄せ、「まことに勝れた不思議な団体たる創価学会」と、最大級の賛辞を送っている。


 表でそんな賛辞を送りながら、裏では謀議を練っていた日顕らの「C作戦」の前文には、


「池田名誉会長を総講頭から解任し(中略)創価学会組織の徹底的壊滅を図り」


とあり、さらに本文には、以下のようにある。


「信心の弱い学会員、理性によって判断できない学会員の中には、ノイローゼ状態による自殺者・一家心中の不幸がおこる可能性がある」



 C作戦を実行することで、自死、ノイローゼ、一家心中がおこることを想定しながら
このような謀略をねるなど、「一切衆生を救う」という日蓮大聖人のご精神からは程遠い、奪命、奪功徳者の姿である。

何故 日顕(日顕宗)を責めるのか

「ちょっと言いすぎじゃないか」とか「イヤだ」だとか思う人がいるんですね。(中略)「仏法は慈悲なのに、なんであそこまで言うんだ」という質問が出ることがあります。「人の悪口を言うのもイヤだし、聞くのもイヤだ」と思う人もいるんですね。



しかし、大聖人は「力あらむほどは謗法をば責めさせたもうべし」と仰せです。「呵責し駈遣し挙処」の「挙処」っていうのは、相手の罪をあげつらうんですね。日顕がどこで芸者遊びをして、どこで問題を起こしたかなどを具体的にあげないと真実がわからないんです。ですから、あれを(日顕や山友の記事)を読んでイヤだと思う人もいるかもしれませんけれど、
えげつないと思うかもしれませんけれども、あれは別に聖教新聞の編集者が、えげつないのではなくて、日顕がえげつないんです。


そのへんをどうかご理解願えればと思うんですね。で、我々が気をつけなければならないのは、中途半端な慈悲心です。学会員は人がいいですから、慈悲心が出てしまう。人間のこの慈悲心につけこんで、その心に入り、哀れみの情を募らせて善悪の判断を狂わせる働きを、仏法では『慈悲魔』といいます。



『慈悲魔』・・・「少乗大乗分別抄」(御書全集P526)という御書にも出てきますがもともと学会員の方々は、人がよく慈悲深い人が多いので、魔がそこにつけこんで「もうそんなに日顕や山友の悪口を言わなくてもいいではないか」と思わせて悪を見逃せる。日顕やそういう悪の輩が責められているのを見て「やりすぎなんじゃないか」「ちょっとかわいそうなんじゃないか」と思うところは小さな善、つまり小善でしかない。


池田先生は、「塵も積もれば山となると言うことわざもあるけれど、塵が積もって出来た山はないんだ。どうすれば山ができるのか。それは地殻変動によっていっきにできる。(あ~かわいそう、やりすぎだっていう)小善をどんなに積み重ねても大善にはならない。では、どうすれば大善に至れるか。大悪と戦ってこそ、大善に至る」と。


             (2011年青年僧侶改革同盟 成田雄伴氏投稿より一部抜粋)