極悪と戦えば極善となる

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悪に打ち勝ってこそ「提婆達多も善知識」

仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ、提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、提婆が善知識であったとは、とても言えない。戸田先生は明快に言われています。


「提婆達多は釈迦一代にわたる謗法の人で、一切世間の諸善を断じた。ゆえに、爾前経では、『悪がなければもって賢善を顕すことがてきない。このゆえに、提婆達多は無数劫以来、常に釈迦とともにあって、釈迦は仏道を行じ提婆は非道を行じてきた。しこうして互いに相啓発してきたものである』と。しかるに対悪顕善(悪に対して善を顕す)が終われば悪の全体すなわちこれ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順(逆縁も即ちこれ順縁)となるのである。このことは爾前経ではいまだ説かれなかった奥底の義である」


悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然のままに放置しておいて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚なきまでに打ち勝って、はじめて善悪不二となるのです。


その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだといえるのです。


提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。無明と法性が一体の妙法の当体です。釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、この妙法そのものだったといえるのです。ゆえに大聖人は【提婆は妙法蓮華経の別名なり過去の時に阿私仙人なり阿私仙人とは妙法の異名なり】(御書全集P744)と仰せです。釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。
そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修行し、成仏したという表現で示したと考えられます。


遠藤 「善悪不二」というのは、決して「善も悪も同じだ」ということではないのですね。


須田 そういう考えだと、これは悪も肯定してしまいます。日本天台が陥った「本覚思想」
   のようになってしまう。そうではなく、常に「善」を創造し、悪も善に変えていくの
   が法華経の「善悪不二」論ですね。


名誉会長 そう、悪知識も善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩も喜びに変え、追い風
     に変えるのが信心の一念の力です。提婆品は、このことを教えているのです。
     日蓮大聖人は


     【釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世    
     間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をば・よくなしけるな
     り】(御書全集P917)


     ー釈迦如来の御ためには、提婆達多こそ第一の善知識であ
     る。今の世間を見ると、人を立派にしていくものは、味方よりもむしろ強敵が
     人を立派にしていくのですーと言われている。成仏するには「内なる悪」に勝利
     しきらなければならない。そのためには「外なる悪」と戦い、勝たねばならない
     悪と戦うことによって、生命が鍛えられ、浄められ、成仏するのです。極悪と
     戦うから極善になるのです。自分の生命を鍛え、成仏させてくれるという本質論
     から見たときには、その極悪も師匠とさえ言えるのです。


     日蓮大聖人も大勝利されたからこそ、こう仰せなのです。


    【日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平
     左衛門尉・守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべき】(御書全集P917


     御本仏を迫害した「悪」の存在をも「善」に変えてしまわれた。実際、大聖人や
     釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは「正道」がどこに
     あるかわかる。その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に 
     「善の道」を示してくれている、といえるでしょう。


          (法華経の智慧第3巻 悪人成仏 善の勝利の偉大な証明より抜粋)

自己の才智におぼれた提婆達多

提婆達多は、「八万宝蔵を胸に浮べ」(全P1348)と御書にあるように、仏の膨大な教えをそらんじれるほど、かなりの秀才だったようだ。しかし、その才智ゆえ慢心が出たのだろう。大聖人や日興上人の時代の三位房、五老僧の一人、日向も才子肌であったようだが、自己の才智におぼれ、「慢心」で信心が狂ってしまった。


【汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし】
                     (持妙法華問答抄 御書全 P463)




【名誉会長: 提婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れずどれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとはしなかったのです。


なぜ見えなかったか。それは彼自身が自分との戦いをやめてしまっていたからでしょう。
「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは、悪と戦っている人です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化しようとしている人のことです。この軌道が人間革命の軌道です。


斉藤教学部長:内なる悪を自覚するーということは「一念三千」ですね、極善の仏にも、提婆達多の極悪の生命がある、というのが、十界互具であり、一念三千ですから】


                       (法華経の智慧第3巻より一部抜粋)

提婆達多の悪を徹底して糾弾した釈尊Ⅳ

提婆達多は、努めて鷹揚に振る舞い、喜んで二人(舎利弗と目連)を迎え入れた。
そして、得々として、従ってきた比丘たちに説法した。彼の話は、実は、ことごとく釈尊の受け売りであった。しかし、比丘たちは目を輝かせ、真剣に提婆達多の説法を聞いていた。


その間、舎利弗と目連は、反撃のチャンスを待っていた。やがて、疲れ果てた提婆達多は舎利弗に言った。


「ここにいる比丘たちの求道の姿を身よ。眠ろうとさえせずに、真剣に法を求めているではないか。舎利弗、彼らのために、私に代わって説法してやってほしい。私は背中が痛くなった。少し休もう」


それは、高齢の釈尊が、疲れた折に、しばしば行っていたことであった。
彼はその振る舞いをみねてみたかったのかもしれない。


舎利弗が説法を始めた。提婆達多は、そのまま横になり、眠ってしまった。


いよいよ反撃の好機は到来した。二人の戦いが始まった。


舎利弗と目連は、苦行に等しい五つの戒律を守ることは、本来の仏陀の道ではなく、提婆達多が教団を分裂させるために画策したものであることを語り、釈尊の教えの正義を叫んだ。
さらに、和合僧の重大な意義を訴え、それを破らんとする提婆達多の反逆を、鋭く暴いていった。五百人の比丘たちの智慧の目は、次第に開かれ、自分たちに分別がなかったために、提婆達多に騙されていたことに気づいた。彼らは、舎利弗と目連に促され、再び釈尊のもとに帰っていったのである。


やがて、眠りから目が覚め、仲間から事の顛末を聞いた提婆達多は、憤怒に震え、その場で熱血を吐いて死んでいったと、ある仏典では伝えている。


弟子の戦いが、釈尊の、そして、教団の窮地を開いたのである。


舎利弗と目連の偉大さは、ただ、智慧や神通力に優れていたことにあるのではない。
まことの時に、その力を発揮し、勝利の旗を打ち立てたことに、彼らの真価があった。
釈尊の教団は、見事に分裂の危機を脱した。


一方、提婆達多にそそのかされて、釈尊に敵対し、父の頻婆沙羅を死にいたらしめた阿闍世王は、重病にかかってしまった。そして、深い反省の末に、遂に釈尊に帰依したのであった。釈尊滅後、阿闍世王は、経典の結集に協力するなど、仏法の興隆に尽力したことは、よく知られている。
          (新・人間革命第3巻 仏陀の章より一部抜粋)


なお、提婆達多の死に関しては、釈尊の命を狙おうとして教団に近づいていったときに、大地が割れて、そこに落ちて死んでいったとされる説もある。


提婆達多は、後悔の心をおこし、助けを求めて釈尊の名前を唱えようとしたが、悪業が深くて臨終の時「南無」としか唱えられなかったと大聖人は「撰時抄」で仰せである。


「提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを業ふかくて但南無とのみとなへて仏とはいはず」
                            (御書全集P287)


【釈尊は徹底して提婆達多の悪を責めました。そのことは疑う余地がない。実は、悪を責めることで悪人を目覚めさせることができるのです。妙法の正義の声を聴くことで、悪人の心に眠っていた仏性が動きだすからです。しかし、悪人の心は厚い岩盤のような無明に覆われているから、弱い声では届かない。悪を厳しく責める糾弾の声こそが、その岩盤を打ち破って仏性を照らすのです】


【正義が沈黙してしまえば、悪がますますはびこってしまう。悪人自身が悔ゆる心をおこすまで、悪を責め続けるのが慈悲に通じるのです】


【御本尊には単に、悪逆の限りを尽くし、至極の苦悩にさいなまれている提婆達多が描かれているわけではない。妙法の光明に照らされて、地獄界の調和していう使命を帯びて、まさに提婆でなければなりえない地獄界における妙法の使者となった提婆達多をみているのです。提婆一人の成仏が無数の悪人成仏の道を開いたといえる】
                 (御書の世界第2巻 御本尊(下)より一部抜粋)