極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

自立的かつ開放的、大胆に行動する"海の男"


阪神 新庄剛志 敬遠球サヨナラ打


 テレビ番組しくじり先生(テレビ朝日系)で現在、バリ島で暮らしている元プロ野球選手でメジャーリーグでも活躍した新庄剛志氏が「先生」として登壇し、過去のしくじり体験を告白しているのをみて、その強靭な精神力に舌を巻いた。
 
 莫大な収入があった現役時代、信用して給料を預けていた人物がこの金に手をつけてしまい、稼いだ44億円(税金差し引いて22億円)が、なんと2千2百万円まで減ってしまっていた。たまに「22億あったらなぁ」と思うことはあるが、今では気持ちを切り替え「また稼ごう」と思っているのだとう。


 彼は、タイガース時代は敬遠球を強引に打ちサヨナラ勝ちを演出したり、日ハムに所属していたころは、試合を盛り上げるため、昔、阪神タイガースにいたころの自分のユニフォームをきてプレイしたり(監督にこっぴどく怒られたそう)、現役時代からとにかく型破りな人だった。FA宣言(フリーエージェント、他の球団に移籍したいという意思表示をすること)し、3球団からオファーを受けた時のエピソード。


 提示された契約金は、阪神12億円、横浜12億円、ヤクルト12億円。
しかし、それら3球団のオファーを蹴って、彼は契約金の一番低い(2200万円)
ニューヨークメッツへの移籍を決めた。


 本人いわく、「メジャーという、レベルの高いところでやりたい」
しかしこの時、


「お前みたいなのがメジャーにいくな」
「日本の恥だ」


などと、さんざん叩かれた。
ところが当の本人は、これが『ものすごく嬉しかった』らしい。


「もう、嬉しくて、嬉しくて」
「だって、そんだけ言われて活躍したとき、スゴイことになる、もっともっと言って」


 そうとうたくましいメンタルをもってないと、なかなかこういうふうには
とらえられない。彼は、ニューヨークにいっても"自分の軸"をぶれさせない。。


「俺が英語覚えるより、周りに日本語覚えさせたほうが早いな」


と思って、周りに日本語を覚えさせたのだという。
前記事『ずうずうしく図太くたくましく』でとりあげた、同じくメジャーで活躍した
野茂選手も通訳を雇い、あまり英語を勉強しなかったようだ。



 この何があっても「自分の軸」をぶれさせないメンタルの強さは、「非常に自立的かつ開放的、進歩的、大胆に行動する」、『海の男』の気質をもっているからだろう。新庄は長崎県対馬市の生まれで、野茂の両親は五島列島出身。その海の文化に対し、村の文化は「保守的、世間体を気にする、上には逆らわない、自分の意見をいわない、本音と建前を使い分ける」。
 
  同じ創価学会の組織でも、山側と海側ではカラーが全然違うらしい。
ちなみに大聖人、創価三代会長は海の文化の中で育っている。それついて於保先生(於保クリニック所長)は次のような見解を述べられている。



 「牧口先生は、荒浜の漁師町の生まれなんですね。海の文化の中で育っているんです。ですから、牧口先生は村の文化の発想ではないですね。戸田先生も北海道の漁村の厚田で育ちました。生まれは石川県の漁師町です。先祖は江戸時代、日本海航路で活躍した船頭さんだったそうです。まさに海の男の家系ですね。池田先生も海苔屋の息子さんです。こうして見ると、創価学会の歴代会長は、全部海の文化なんです。大聖人と非常にストレートにつながっているんです」



「非常に興味深いのは、私の先輩の創価大学の宮田教授が、牧口先生の研究をされております。牧口先生が、もし宗門と直接出会っていたらおそらく入信しなかっただろうと書いてありました。牧口先生は、創価教育学の土台となりうる宗教を求めていらっしゃった。自立的かつ論理的(ろんりてき)である宗教です。創価教育というのは、生徒を温かい心で見る、そして、人間の可能性を見る、そういう教育ですから、その土台となる宗教を探されたんです」



 「そして日蓮正宗に出会うんです。当時、堀米尊師(ほりごめそんし)が、中野の歓喜寮(かんきりょう)というお寺ではない出張所をつくられていたんです。この堀米尊師は、早稲田大学で哲学を勉強されていて、これからの仏教は、寺仏教ではもう何の貢献もできない。だから在家の人たちが活躍できる在家仏教、そういう宗教運動を起こしていかなければならないという危機意識で歓喜寮をつくられたんです」



 「その堀米尊師と牧口先生が出会ったものですから、いわゆる在家仏教運動と牧口先生の創価教育学とか丁度合致したわけです。そこから人間主義の宗教運動が始まったんです。しかし、宗門側からしてみれば、最初から創価学会は「生意気だ、信徒が大きな顔をするな」というのがあったわけです。これはまさに『村の文化』と『海の文化』の対立と言ってもいいでしょう」



 「狸祭り事件とか、今までにいろいろありましたが、全部根源は、このもともと違う文化の違いにあるんですね。いよいよ、そのことが明確になったのが、現在の宗門問題が起こってからの、今の創価学会と宗門の関係になっているわけなんです。そういう意味では、起こるべくして起こった事と私は思っています」




あなたは負けじ魂の人である

 第26回 本部幹部会 2003年 3月 池田先生のスピーチより


四条金吾は、様々な苦難と戦ったんです
それを大聖人は信頼しているんです


職場では 正しき信心の故に左遷(させん)ばかり
領地は没収 同僚からは いつも批判 意地悪


坊主どもの 共謀によって 事実無根の罪を 
たくさん作られる それで苦しむ


頼るべき家族にあっても 兄弟がみんな仲が悪いんです
中でも兄は あからさまに四条金吾を憎み 苦しめ いじめるんです


全部兄弟が信心しているとは 限らないんです
四条金吾をみれば わかる 大聖人の時代でも
四条金吾 一人なんです
あと 兄弟 親戚 全部反対です
それでいいんだ そこから始まるんです


それで四条金吾の最初の妻 死んじゃうんです
かわいい娘は重病 たいへんな重病だったんだ 治らない
誰でも人生は 何らかで大変なんです


だから 「煩悩即菩提だよ」って 誰でもそうなんだ
「宿命転換だからするんだよ」って
「そのための仏法だよ 勇気を出せよ」
これが大聖人の叫びです


あるとき さすがの四条金吾も ついに周囲に 愚痴をこぼすことになる
あの 剛毅な 絶対愚痴をこぼさないような 勇敢な 四条金吾が
金吾が それは 45歳のとき


「法華経をたもつ者は現世安穏と説かれているのに、どうして自分にこのように大難が雨のように降りかかってくるのでしょうか」


""大聖人、ウソつきじゃないですか、あなたは""


こうなっちゃったんだよ


それを聞いた 大聖人は 即座に励ましの激励をする


受くるは やすく 持(たも)つは かたし さる間 成仏は 持つにあり
此の経を 持たん人は 難に値(あ)うべしと 心得て 持つなり


そう覚悟して いきなさい 
難と戦いなさい 仏になる


「四条金吾 いいか 臆病であっては 日蓮の弟子ではない」
「妙法を謗る者がいれば いよいよ強く訴えろ」


折伏しなさい 妙法をそしる者には いよいよ強くいいなさい


じゃんじゃんやられれば 臆病になるよ
で、あるけれども 本当の偉い自分をつくるには 人間をつくるには こうだろうね
大聖人の仰せに 間違いはない 四条金吾は それを受けて
大聖人に敵対する奴ら 坊主 権力者 その日から 勇敢に 恐れなく
正義を叫び続けて 死んでいったんです


今もって四条金吾の名は 光っている
だから 「師匠の一念」と弟子の「我が一念」が融合し
一致した弟子は 偉いんです


それが牧口先生と戸田先生 戸田先生と私だったんです
その方程式 仏法の真髄の 方程式なんです


師子の「師」とは師匠 「子」は弟子 
それが『師子』です
両方が師子なんだ ライオンなんです


御義口伝に 「師子吼(ししく)せよ」 「師弟が同じ心で吼(ほ)えよ」


師子吼しよう!


大聖人は 四条金吾のことを こう言っている


""負けじ魂の人である""
""あなたは負けじ魂を持っている""


仕事に勝ち 社会に勝ち 人生に勝ち 一切に勝ちゆく
負けじ魂が 学会魂であると ""われわれの信念""であると


今日はお互いに これを確認しあいましょう!



なぜ謗法を責めないといけないのか

青年僧侶革命同盟 成田雄伴氏の投稿より一部抜粋


それから脱会者の中でも、悪意を持って池田先生と学会の悪口を言う人間には、もう、真っ向から破折しかないんですね。破折し続けることによって罰がでるんです。
破折しなきゃ罰はでないんですね。必ず言い切っていくことです。


【若し善比丘あつて法を壊(や)ぶるものを見て置いて呵責(かしゃく)し駆遣(くけん)し拳処(こしょ)せずんば当(まさ)に知るべし是の人は仏法の怨(あだ)なり】(御書P26)


【若し能(よ)く駆遣し呵責し拳処せば是れ我が弟子・真の声聞なり】(同)


呵責(かしゃく)とは、責めるということ。
駆遣(くけん)は、叩き出す。
拳処(こしょ)、これは相手の罪をあげつらうことです。


よくですね、聖教の「自由座談会」で、日顕の馬鹿が、山友の馬鹿が、など
あまりにも口汚くののしるもんですからね、会員の中には、「ちょっと言い過ぎなんじゃないか」「イヤだ」とか思う人がいるんですね。何故かというと「会員じゃない人も読む新聞だから・・・」とか、「仏法は慈悲なのに、なんであそこまでいうんだ」という質問がでることがあります。


その気持ちは、よくわかるんですけれども、これは逆に気をつけなければならないところでもありまして、大聖人は【力あらんほどは謗法を責めさせ給うべし】と仰せです。
「呵責し駆遣し拳処」の『拳処(こしょ)』っていうのは、相手の罪をあげつらうんですね。


日顕がどこで芸者遊びをして、どこで売春婦と問題を起こしたかなど、具体的にあげないと真実がわからないんです。ですから、あれを読んでイヤだと思う人もいるかもしれませんけれども、えげつないと思う人もいるかもしれませんけれども、あれは別に聖教新聞の編集部がえげつないんじゃなくて、日顕がえげつないんです。その辺をどうかご理解願えればと思うんですね。


で、我々が気をつけなければいけないのは、中途半端な慈悲心です。
学会員は、人がいいですから、つい慈悲心がでてしまう。
人間のこの慈悲心に付けこんで、その心に入り、哀れみの情を募らせて、善悪の判断を狂わせる働きを、仏法では「慈悲魔(じひま)」といいます。慈悲魔ってあるんです。
あの仏教哲学大辞典を家に帰ってひもといてください。ちゃんと出ています。


『慈悲魔』・・「小乗大乗分別抄」(御書P562) という御書にも出てきますが、もともと学会員の方々は、人がよく慈悲ぶかい方が多いので、魔がそこにつけ込んで、
「もうそんなに日顕や山友の悪口は言わなくてもいいではないか」と思わせて悪を見逃せる。日顕やそういう悪の輩が責められているのをみて、「やりすぎなんじゃないか」「ちょっとかわいそうなんじゃないか」と思うところは小さな善、つまり小善でしかない。


池田先生は、「塵も積もれば山となるということわざもあるけれど、塵がつもって出来た山はないんだ。どうすれば山ができるか。それは地殻変動によって一気にできる」
(あ~可哀そう、やりすぎだっていう) 小善をどんなに積み重ねても、大善にならない。
では、どうすれば大善に至れるか。大悪と闘ってこそ、大善に至る」と。


そういう意味で私は教宣部の戦いというのは、最高のチャンスだと思うんですね。仏の醍醐味(だいごみ)を知る上で最高のチャンスだと思うんです。私は、今こそ全学会員の方々が、元気いっぱいになるときではないかと思います。日顕打倒を猛然と祈ることによって生命の波動が変わります。猛然となります。炎が燃えたぎります。