極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

退転・反逆者の共通点

今まで自分が見聞きしてきた、退転し反逆していった人の共通項を述べさせていただく。


① 勤行唱題をサボる
② 自分自身を謙虚に見つめようとしない
③ 幹部や同志の批判ばかりする
④ ""自分は特別"" 等の思い上がりがある
⑤ 退転、反逆者等に同調し、破折もしないで「詐(いつわ)り親し」んでいる
⑥ 組織から打ち出しがでても、色々と理屈をこねてやらない


この中でも、特に⑤は要注意であろう。
退転、反逆者の生命に""感応""しているからである。


日蓮大聖人は、明確にこう仰せである。


【若し善比丘(ぜんびく)あつて法を壊(や)ぶる者をみて置いて呵責(かしゃく)し駆遣(くけん)し拳処(こしょ)せずんば当(まさ)に知るべし͡是の人は仏法の中の怨(あだ)なり】御書P26


(もし仏法者が、仏法を破壊する者を見ておきながら、そのまま放置して、相手の非を厳しく責めず、追放もせず、はっきり罪を挙(あ)げて処断しないのであれば、まさにこの仏法者は仏法の中の怨敵(おんてき)であると、知るべきである)


【万事を閣(さしお)いて謗法(ほうぼう)を責むべし】御書P494


(他のことを放っておいても、謗法を責めなさい)


【いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道(かんどう)を得たる人なりとも法華経の敵(かたき)をだにも・せ(責)めざれば得道(とくどう)ありがたし】
御書P1494


(どんなに大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ成仏できない)


謗法を見て、破折もしないで詐(いつわ)り親しむならば、自身が「仏法中怨」、仏法の中の怨(あだ)になり、どんなに仏道修行に励み善根を積んでも、法華経の敵を責めなければ成仏できないと、厳しく指南されている。




学会に評論家はいらない

新人間革命 第18巻 獅子吼の章


 伸一が最も粘り強く指導・激励を重ねたのは、愚痴や文句の多いメンバー(聖教新聞社勤務の職員) に対してであった。彼は、そうした記者の意見をすべて聞いたうえで、諄々と訴えた。


 「もし、学会に批判があるなら、ただ文句を言っているのではなく、君が自分で、理想的な学会をつくっていくことだ。私もそうしてきた。自分は傍観者(ぼうかんしゃ)となり、ただ批判をしているだけでは、破壊ではないか。主体者となって立ち上がろうとしなければ、自分の成長も広宣流布の建設もない。同じ一生ならば、傍観者として生きるのではなく、広宣流布のために、学会と運命をともにしようと心を定め、力の限り戦い抜くことだ」


 また、仲間同士で集まって酒を飲んでは、先輩幹部の批判ばかりしている、二、三人の記者がいた。彼らは大物ぶっていたが、付和雷同(ふわらいどう)的な傾向があり、自分を見つめる姿勢に欠けていた。


 ゲーテは断言する。


""きみが誰とつきあっているか、言いたまえ。そうすれば、君がどのような人間であるかを言ってあげよう""


 「批判は簡単だ。では、自分に何ができるのだ。真剣に自分を磨くことを忘れてはいけない。不平不満は自分を惨めにするだけだよ」


 文句ばかり言っていた記者も、自分の言動を恥じ、学会を担う誇りに燃え、果敢に学会活動にも励むようになった。


 なかには、伸一が真心を尽くして、指導、激励を重ねても、学会を見下し、広宣流布を忘れ、批判を繰り返す者もいた。しかし、やがて彼らは、誰からも相手にされなくなり、皆、自分から職員をやめていった。清らかな信仰の世界では、悪心の者は、その醜悪なる
正体が明らかになり、出ていかざるをえないのである。


 広宣流布をめざす清浄無比(せいじょうむひ)なる異体同心の連帯が聖教であり、本部である。ゆえに、悪を絶対に許してはならない。


 「悪人は叩き出すのだ! そうでなければ学会が蝕まれてしまう」


 それが戸田城聖の叫びであった。

ずうずうしく 図太く たくましく


以下、於保クリニック所長 於保哲外(おぼてつがい)氏の言葉を一部抜粋


 よく池田先生が『ずうずうしく図太く、たくましくいこう』と『口八丁、手八丁でいくんだ』とおっしゃられていますが、それが正しいんですね。だから今の世の中、『悪がのさばっている』といいますが、悪がのさばっているのも問題なんですが、『いい人が自分を殺す』という間違ったことをしている事のほうが見えにくいだけに、もっと問題なんですね。


 だから、これからは、真面目な人が、善い人が、思いやりのある人が、心が優しい人が、もっともっと言いたいことをズケズケ言っていく。正義を主張していく。勢いを増していく。そうなっていくと、今のさばっている自分さえよければいいという人たちが、肩身が狭くなっていくでしょう。


 実は、この日本文化、真面目というのが、先ほどから言っている「村の文化」なんです。出過ぎた真似をすると、村八分になるんです。白黒はっきりさせる人は嫌われるんです。・・・(中略) 村の文化というのは、非常に世間体を気にし、また保守的で、そして自分の意見は言わない。表面はにこにこしていても本音は違う。建前と本音を立てわけるという特徴があるんです。


 もう一つの日本文化がある。これを「海の文化」というんです。
(野茂選手がアメリカの大リーグにいくとき)日本のマスコミはこぞって叩きましたね。「なんでいくんだ」と反対しました。しかし、野茂は淡々といきました。野茂は大阪生まれだそうです。しかし両親は五島列島の出身なんですね。この「海の文化」というのは、非常に自立的ですね。そして非常に活動的かつ開放的なんです。


 日蓮大聖人は『旋陀羅(せんだら)が子』といって『漁師の子』なんです。すなわち海の文化なんです。『旋陀羅(せんだら)』というのは、サンスクリット語で""チャンダーラ""です。すなわちカースト制度の最下層の子供であるということを誇りにされたんですね。
その時代の最下層ですからね。


 かたや、大聖人が戦った相手は、国家権力の最高峰なんです。なんの後ろ盾もなく、それと真っ向からぶつかる。これはすごい対比だと思うんです。まったく身分とか、権力を持たない大聖人と、方や権力の最高峰。ぶつかりあって、大聖人が『わづかの小島の主らが』という言い方をされる。これは村の文化のひとは、畏れ多くていえない言葉ですね。
海の文化の大聖人にしていえる言葉だったんです。


 ところが、この大聖人の仏法が大聖人亡き後、お山の宗教になるんですね。村化していくんです。村の文化に毒されていくんです。それが行き着いた先が『法主絶対』。したがって我々が行っても『お目通りかなわぬ身』と。そういう発想になっていくんです。
この階級制が強いというのも「村の文化」の特徴です。昔の村というのは、小作人だと、庄屋さんの土間に這いつくばらなければならなかったんです。門を建てていい家と悪い家があるんですね。服装までも身分で決まってしまう。