極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

あなたは負けじ魂の人である

 第26回 本部幹部会 2003年 3月 池田先生のスピーチより


四条金吾は、様々な苦難と戦ったんです
それを大聖人は信頼しているんです


職場では 正しき信心の故に左遷(させん)ばかり
領地は没収 同僚からは いつも批判 意地悪


坊主どもの 共謀によって 事実無根の罪を 
たくさん作られる それで苦しむ


頼るべき家族にあっても 兄弟がみんな仲が悪いんです
中でも兄は あからさまに四条金吾を憎み 苦しめ いじめるんです


全部兄弟が信心しているとは 限らないんです
四条金吾をみれば わかる 大聖人の時代でも
四条金吾 一人なんです
あと 兄弟 親戚 全部反対です
それでいいんだ そこから始まるんです


それで四条金吾の最初の妻 死んじゃうんです
かわいい娘は重病 たいへんな重病だったんだ 治らない
誰でも人生は 何らかで大変なんです


だから 「煩悩即菩提だよ」って 誰でもそうなんだ
「宿命転換だからするんだよ」って
「そのための仏法だよ 勇気を出せよ」
これが大聖人の叫びです


あるとき さすがの四条金吾も ついに周囲に 愚痴をこぼすことになる
あの 剛毅な 絶対愚痴をこぼさないような 勇敢な 四条金吾が
金吾が それは 45歳のとき


「法華経をたもつ者は現世安穏と説かれているのに、どうして自分にこのように大難が雨のように降りかかってくるのでしょうか」


""大聖人、ウソつきじゃないですか、あなたは""


こうなっちゃったんだよ


それを聞いた 大聖人は 即座に励ましの激励をする


受くるは やすく 持(たも)つは かたし さる間 成仏は 持つにあり
此の経を 持たん人は 難に値(あ)うべしと 心得て 持つなり


そう覚悟して いきなさい 
難と戦いなさい 仏になる


「四条金吾 いいか 臆病であっては 日蓮の弟子ではない」
「妙法を謗る者がいれば いよいよ強く訴えろ」


折伏しなさい 妙法をそしる者には いよいよ強くいいなさい


じゃんじゃんやられれば 臆病になるよ
で、あるけれども 本当の偉い自分をつくるには 人間をつくるには こうだろうね
大聖人の仰せに 間違いはない 四条金吾は それを受けて
大聖人に敵対する奴ら 坊主 権力者 その日から 勇敢に 恐れなく
正義を叫び続けて 死んでいったんです


今もって四条金吾の名は 光っている
だから 「師匠の一念」と弟子の「我が一念」が融合し
一致した弟子は 偉いんです


それが牧口先生と戸田先生 戸田先生と私だったんです
その方程式 仏法の真髄の 方程式なんです


師子の「師」とは師匠 「子」は弟子 
それが『師子』です
両方が師子なんだ ライオンなんです


御義口伝に 「師子吼(ししく)せよ」 「師弟が同じ心で吼(ほ)えよ」


師子吼しよう!


大聖人は 四条金吾のことを こう言っている


""負けじ魂の人である""
""あなたは負けじ魂を持っている""


仕事に勝ち 社会に勝ち 人生に勝ち 一切に勝ちゆく
負けじ魂が 学会魂であると ""われわれの信念""であると


今日はお互いに これを確認しあいましょう!



なぜ謗法を責めないといけないのか

青年僧侶革命同盟 成田雄伴氏の投稿より一部抜粋


それから脱会者の中でも、悪意を持って池田先生と学会の悪口を言う人間には、もう、真っ向から破折しかないんですね。破折し続けることによって罰がでるんです。
破折しなきゃ罰はでないんですね。必ず言い切っていくことです。


【若し善比丘あつて法を壊(や)ぶるものを見て置いて呵責(かしゃく)し駆遣(くけん)し拳処(こしょ)せずんば当(まさ)に知るべし是の人は仏法の怨(あだ)なり】(御書P26)


【若し能(よ)く駆遣し呵責し拳処せば是れ我が弟子・真の声聞なり】(同)


呵責(かしゃく)とは、責めるということ。
駆遣(くけん)は、叩き出す。
拳処(こしょ)、これは相手の罪をあげつらうことです。


よくですね、聖教の「自由座談会」で、日顕の馬鹿が、山友の馬鹿が、など
あまりにも口汚くののしるもんですからね、会員の中には、「ちょっと言い過ぎなんじゃないか」「イヤだ」とか思う人がいるんですね。何故かというと「会員じゃない人も読む新聞だから・・・」とか、「仏法は慈悲なのに、なんであそこまでいうんだ」という質問がでることがあります。


その気持ちは、よくわかるんですけれども、これは逆に気をつけなければならないところでもありまして、大聖人は【力あらんほどは謗法を責めさせ給うべし】と仰せです。
「呵責し駆遣し拳処」の『拳処(こしょ)』っていうのは、相手の罪をあげつらうんですね。


日顕がどこで芸者遊びをして、どこで売春婦と問題を起こしたかなど、具体的にあげないと真実がわからないんです。ですから、あれを読んでイヤだと思う人もいるかもしれませんけれども、えげつないと思う人もいるかもしれませんけれども、あれは別に聖教新聞の編集部がえげつないんじゃなくて、日顕がえげつないんです。その辺をどうかご理解願えればと思うんですね。


で、我々が気をつけなければいけないのは、中途半端な慈悲心です。
学会員は、人がいいですから、つい慈悲心がでてしまう。
人間のこの慈悲心に付けこんで、その心に入り、哀れみの情を募らせて、善悪の判断を狂わせる働きを、仏法では「慈悲魔(じひま)」といいます。慈悲魔ってあるんです。
あの仏教哲学大辞典を家に帰ってひもといてください。ちゃんと出ています。


『慈悲魔』・・「小乗大乗分別抄」(御書P562) という御書にも出てきますが、もともと学会員の方々は、人がよく慈悲ぶかい方が多いので、魔がそこにつけ込んで、
「もうそんなに日顕や山友の悪口は言わなくてもいいではないか」と思わせて悪を見逃せる。日顕やそういう悪の輩が責められているのをみて、「やりすぎなんじゃないか」「ちょっとかわいそうなんじゃないか」と思うところは小さな善、つまり小善でしかない。


池田先生は、「塵も積もれば山となるということわざもあるけれど、塵がつもって出来た山はないんだ。どうすれば山ができるか。それは地殻変動によって一気にできる」
(あ~可哀そう、やりすぎだっていう) 小善をどんなに積み重ねても、大善にならない。
では、どうすれば大善に至れるか。大悪と闘ってこそ、大善に至る」と。


そういう意味で私は教宣部の戦いというのは、最高のチャンスだと思うんですね。仏の醍醐味(だいごみ)を知る上で最高のチャンスだと思うんです。私は、今こそ全学会員の方々が、元気いっぱいになるときではないかと思います。日顕打倒を猛然と祈ることによって生命の波動が変わります。猛然となります。炎が燃えたぎります。



日顕のいい加減な御本尊書写

 相変わらず学会が授与する日寛上人書写の御本尊を「ニセモノ」呼ばわりする宗門。


 彼らの主張は学会の御本尊には「法主の許可がない」「法主の開眼がない」「本山からの下付がない」などと、荒唐無稽なことばかり。だいたい、前法主の日顕自体が、日達上人から正式な相承を受けていない「ニセ法主」ではないか。


 日顕に御本尊書写の仕方を指南していたといわれる、故・河辺慈篤(かわべじとく)は、日顕の御本尊書写のいい加減さに呆れ「自分が教えたのと違う」と周囲にもらしていたという。


 日顕が書写した御本尊には、「妙楽大師」が入らなかったり、「帝釈」と記したと思いきや、「釈提桓因」(しゃくだいかんいん) と書くなど、相貌が次々と変化した。


ある時は「未曾有大曼荼羅也」(みぞうのだいまんだらなり)の一節が抜けていて、それに気づいた僧侶がそれを報告すると、「(信徒が)気づいてないなら、知らん顔しとけ」と言い放った。「十羅刹女」「阿闍世王」「大龍王」を書き忘れたこともあった。


 さらに呆れるのが、御本尊を書写する時の姿勢である。
日顕は書写室を使わず大奥の居間などで書写し、あるときは落語のテープなどを聞きながら書写していたという。またあるときは、書きかけの本尊を机の上に放置したまま居眠りをしていたというエピソードもある。


 信者の信仰の根幹である「大事な御本尊」を書写させていただいている、との厳粛さが微塵も感じられない、このていたらく。御書に「日蓮がたましひをすみに」とあるが、大聖人のご境涯からは程遠い、こんなふざけた輩の「たましひ」がこもった御本尊などこちらから願い下げである。


 学会が授与しているご本尊に難癖をつけ、勝手にコピーしたのなんのといっているが、
そもそも「御形木御本尊」というのは、御本尊を木版や写真製版等にして印刷する御本尊のこと。宗門でも下付してきた経緯がある。学会の御本尊がニセ本尊であるというのなら、宗門で下付してきた御形木御本尊もニセ本尊ということになる。