極悪と戦えば極善となる

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己心の仏界を開かせるための御本尊

 御本尊については、信仰の根幹にかかわる非常に大事なことなので、軽々しく論ずることはできないが、あえてここで「私見」を述べさせていただく。


 大聖人は、こう仰せである。


『此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり』御書P1244


 御本尊を「余所(よそ)に求めてはならない」と。
我々の中に、偉大な生き方をされた大聖人と同じ『仏の生命』がある。
それに気づかせるために『曼荼羅(まんだら)』として御本尊をあらわされた。


 我々はよく「御本尊から功徳をいただく」といい方をするが、
正式には「唱題をすることにより、己心の仏界が開いて、自分が功徳を出して」いるのである。


 『南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団』と仰られているように、御本尊は自分自身の中にある。だから、それを悟ったひとは他人や環境にふりまわされない""内道""の生き方ができる。


『夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我れ等がむねの間にあり、これを悟るを仏といふ・これをさとるは法華経なり』御書P1504


 このように、幸不幸の原因は「自分自身」にある、と悟ることが仏である、と仰られている。これを『内道』という。


 それ故、一念三千の御本尊を外にみたら「外道」になるのである。
御本尊に『おすがり信仰』してはいけないといけないといわれる所以はここにある。
自分の中にも大聖人と同じ仏界が具わっている。
それを強く自覚して唱題することが大事である。


 大聖人が『人本尊』というれる所以は、法華経に説かれる通りに大難にあい、妙法をひろめていったからである。折伏をし、難にあっているか、魔が競いおこっているかどうかで、その人が如説修行の人か否かを判断することができる。


 牧口先生、戸田先生は法のために獄に入り、特高刑事に殴る蹴るの暴行を受けている。
在家の信者がこのような大難をうけているのに、この時、宗門は弾圧を恐れて創価教育学会信徒を除名処分にした。


 日蓮正宗の僧の中にも獄に入り、法に殉じて亡くなった「蓮城房」(れんじょうぼう)という僧侶がいたのだが、宗門は、なんと保身のためこの僧侶の僧籍を剥奪し、切り捨てたのである。宗門の「切り捨て」体質は今も昔も変わっていない。


 この殉教した蓮城房(れんじょうぼう)という僧侶は生前、学会弾圧事件について次のように語っている。


『在家だけが法難にあってこれはおかしいんだ。僧俗一致して法難にあうというんなら話は分かる』


 日蓮正宗宗門では、「学会が授与する御本尊は法主の「開眼(かいげん)がない」から功徳はない」などと喧伝(けんでん)しているが、他宗にみられる開眼のような特別な儀式が必要などと御書のどこにも書いていない。


 大聖人は真言密教と対比し「此の画木に魂魄(こんぱく)と申す神(たましい)を入るる事は法華経の力なり」P1145 と、開眼は法華経の力によるべきであると記されている。


 大御本尊を信徒支配の道具にした宗門は、「法主にのみ御本尊に関する権能(けんのう)がある」などと述べているが、法水(ほっすい)といっても、我々は「広宣流布への信心」によって御本仏日蓮大聖人から直接法水を受けているのである。信心のひとかけらもない法主から法水を受けているのではない。



邪心の人は淘汰されていく創価学会

以下 新人間革命 第2巻 勇舞より


 最初に支部婦人部長の候補にあがっていた地区担当員の周辺から、石山照代の人事に不満がでていることがわかった。しかも、その地区担当員は、表面では平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動していて、石山を批判するように仕向けていることがわかった。あまりにも愚かしく、情けない話である。


 学会の役職は名誉職ではなく責任職である。会員への奉仕に徹し、広宣流布の責任を果たし切ることが最大の任務だ。したがって大きな責任をもつ立場になればなるほど、""自分""を捨てて、法のため、広布のため、同志のために尽くし抜こうとの決定した一念がなければその任を全うすることはできない。


 自分が支部の婦人部長になれないことで不満をいだき、陰で人を非難したりすること自体、広宣流布よりも""自分""が中心であることを裏づけている。それは、学会の幹部として不適格であることの証明といってよい。いかなる理由にせよ、広宣流布の使命に生きる同志を嫉妬し、恨み、憎む罪はあまりにも重い。


 -信心によって病を克服した体験をもつ婦人が、なぜ周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕まれていることは確かだが、どうしてそれに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。


 日蓮大聖人は、『若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』P383
と仰せである。つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、その原因は自己の生命にあると自覚することから仏法は始まる。しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を他人に見いだし、""己心の外""に法を求めているからにほかならない。


 そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも反省もない。ゆえに成長も人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。


 また組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うかである。中心者を陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。


 この時、組織を攪乱した婦人は、一時期は、先輩の指導によって立ち直り、幹部として活動していたが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。



 
 

戒壇の意義は ""防非止悪""


 相変わらず、ひとつ覚えのように日蓮正宗の連中は「学会は弘安2年の大御本尊を受持の対象からはずした」と、わめいているが、そもそも戒壇の意義は『防非止悪』(自らが非法・悪法をとどめる信心を誓い、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める)



 自らが非法・悪法をとどめてこそ、『事の戒法』である。大聖人は有徳王・覚徳比丘の不惜身命の戦いを戒壇建立の条件として掲げられている。



 しかし、日蓮正宗僧侶は「不惜身命」の戦いをするどころか、前法主阿部日顕自ら禅寺に墓をたてるなどの謗法をおかし、開眼法要を行い、破折もしないでそのあと酒宴。信徒の供養を貪り、遊戯雑談にふけり、化儀をふりまわして信徒を睥睨。



『外見のみ謗法厳戒を立て内部には謗法容認の非行あらんことは物怪(もっけ)なり』
                              (日亨上人)


まさに、物怪、妖怪の所業。


 「禅天魔」と大聖人が喝破されている通り、阿部日顕の心身には、禅宗の害毒が深く深く染み込んでいたのであろう。


 天台宗比叡山延暦寺が真言や禅などに染まり『天魔の山』と化していることを大聖人は
「立正観抄」で厳しく呵責されている。


「当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事」p532


「当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり」
「爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり」P533


 大石寺はもはや「天魔の山」と化している。このような魔の住処には、いかに弘安2年御図顕の大御本尊がご安置されていようと参詣する必要はない。