極悪と戦えば極善となる

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災難対治抄

大聖人御在世の鎌倉時代、大地震、干ばつや疫病の流行など三災七難が相次いでいた。
「災難対治抄」(御書P85)において、


「如何にして速に此の災難を留む可きや」


の問いをもうけられ、



「速に謗法の者を治す可し若し爾らずんば無尽の祈祷有りと雖も災難を留む可からざるなり」



謗法の者を対治しなければ、種々の願いもかなわず、
災難は止まらないと仰せられている。



「問うて曰く如何が対治すべき」への答えには、



「施を留めて対治す可しと見えたり」



謗法への布施をとどめて対治すべきだと述べられる。



次の「謗法の者に於いて供養を留め苦治を加うるは罪有るや不や」の問いには、



「苦治すべし尚罪有ることむ無けん」



涅槃経の文を引かれ、謗法の者(僧侶)への供養を止めて、「苦治」、苦しむほどの厳しい対治を加えても全く罪にならないと仰せになっている。



現代においては【あらゆる根源の一凶】である日顕宗への布施をとどめ、厳しい対治を加えることこそ、立正安国への道であり、個人的な種々の願いもかない、不幸の因である
愚痴・不信・怨嫉・慢心など【自己自身の一凶】も断ち切ることができるのである。




最上第一の相伝をふみにじった宗門

「最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり、
八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文までにて経は終るなり当の字は未来なり、
当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」
        (御義口伝 下 普賢品六箇の大事 第六此人不久当詣道場の事)



""未来にあらわれる法華経の行者を、必ず仏のごとく敬っていきなさい""というのが
日蓮大聖人の「最上第一の相伝」なのである。


大聖人が日興上人に相承されたのは、日興上人が本門弘通の大導師、広宣流布のリーダーにふさわしい戦いをしてきたからである。


師匠と共に大難を受け、苦楽をともにし ""師の思いを我が思い""とし、先陣を切って折伏弘教に全力をあげられ、23歳の若さで岩本実相寺の改革に立ち上がられている。


日興上人は、


「身軽法重の行者に於いては下劣の法師なりと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬致す可き事」


と明確にご遺誡されている。


ところが67世阿部日顕は自分は折伏一つしないのに、宗門発展の大功労者の池田先生を「当如敬仏」の道理に任せて信敬するどころか、法華講総講頭を罷免、そして学会を破門。


「此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流にあらず」


と仰せられているように大聖人からの最上第一の相伝をふみにじった現宗門は、日興門流を名乗る資格はないのである。



大聖人から極楽寺良観への手紙

蒙古襲来の危機が迫る中、大聖人は極楽寺良観に今までの謗法を反省し、自分に帰依するように書状を出されている。


「長老忍性速やかに嘲哢の心を翻し早く日蓮房に帰せしめ給え、若し然らずんば人間を軽賤する者・白衣の与に法を説くの失脱れ難きか、依法不依人とは如来の金言なり」


「良観聖人の住処を法華経に説いて云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在り」と、
阿練若は無事と翻ず争か日蓮を讒奏するの条住処と相違せり」


「僭聖増上慢にして今生は国賊・来世は那楽に堕在せんこと必定なり、聊かも先非を悔いなば日蓮に帰す可し」
     
                   (極楽寺良観への御状 御書P174)



極楽寺良観は、外面はいかにも聖者のように装い、内には「貪嫉」をいだき、「人間を軽賤」し、大聖人を陥れるために権力者に讒言していた。


安全な人里離れた閑静な地で、自分自身は折伏もせず、難も受けず、法華経を一文一句身で読んだこともない、表面は学会の理解者を装いながら、裏でいろいろと画策して宗門発展の大功労者である池田先生や折伏にまい進する学会員を陥れようとするなど阿部日顕の所業は現在の僭聖増上慢そのもの。


戦前、神本仏迹論の邪義を唱え、牧口初代会長や戸田会長の投獄の元凶となった小笠原慈聞は、後年反省し、


「自らの誤った生き方を正してくれたのは学会であり、あの果敢な弘教がなければ宗門は衰微してしまっていたであろう」


と述懐している。


その小笠原を何倍も上回る大悪僧となった阿部日顕は、今世での数々の悪行、仏法破壊行為を心から反省し改めなければ、御聖訓にてらし、


「今生は国賊・来世は那落に堕在せん」ことは必定なのである。