極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

どんな立場にあっても学会を守れ

【(戸田)先生は私に「どんな立場にあっても学会を守れ」と一言おっしゃった。
師匠の一言です。たとえ万が一、戸田先生がそのことをお忘れになろうとも、そうおっしゃったことは事実だ。ゆえに私はそのことを胸に堅く秘めながら、いついかなる時も「その通りに」やってきました】


【会長を勇退して二十年。名誉会長なのだから、本来ならば、責任はない立場なのかもしれない。しかし、役職は仮のものだ。信心は一生涯、自分自身の「心」の問題です】


【「どんな立場にあっても学会を守れ」師匠の一言を、私は「その通りに」実行してきたつもりです。「その通りに」実行するから「師弟不二」なのです】


      (法華経の智慧 「如」「去」は師弟不二の信心 池田先生の御指導より)

それでも人生にイエスと言う


【それでも人生にイエスと言おう】  
              ユダヤ人のブーヘンヴァルトの囚人たちの作った歌
                       


ヴィクトール・フランクルは精神科医だったが、第二次世界大戦中、ナチスドイツによりユダヤ人として強制収容所に入れられた。



最初に送られたテレジン強制収容所では父親を亡くし、別の収容所では母親と妻が亡くなった。次にアウシュヴィッツ強制収容所に輸送されたが、「選別」され、輸送された人のうちの95パーセントの「働けない」とみなされた者は、ガス室に直行で「チクロンB」という毒ガスで殺された。今でもアウシュヴィッツのガス室には、毒ガスでもがいて苦しんだ人々の爪の痕が残っているのだという。


フランクルは「働ける」とみなされ、運よく生かされたが、身に着けているものは全て没収され、紙も刈られて坊主頭にされ、「自分以外のものは何も残らなかった」と。


アウシュヴィッツでは「働ける人間」だけが生きてもよいとされ、
片足を引きずっているだけでも、ナチの親衛隊員は容赦なくガス室に送った。


食事は一日一食で、ひとかけらのパンと何かを煎じたようなスープのみ。
不衛生極まりなく、チフスで亡くなる人も続出した。
残酷な方法で殺される人を見るのは日常茶飯事。


極限状態の中で動物のようになってしまった人もいた。無理もないことだと思う。
この生き地獄のような辛い環境で生き抜いた彼の強さの源は何だったのか。
彼は、「強制収容所を生きて出て、自分がウィーンの市民大学の講演に立って「強制収容所の心理学」という題で講演している」自分を想像していたのだという。


その通り、彼は生きて強制収容所を出て、ウィーンの市民大学の現実のホールで講演を行った。どんな絶望的状況の中でも人間は「希望」を見出すことができる。そのことを彼は教えくれているように思う。





【衝撃の真実】夜と霧|フランクル 自分の人生を肯定できないあなたへ ~絶望的な世界を生き抜く唯一の思想~

新たな使命

もうすぐ新聞配達も卒業で「寂しい」と感じていたところに「地区の新聞長」に、との新たな使命をいただいた。


「これでまた、福運を積ませていただける、宿命転換の戦いをさせていただける」と思い、これは「功徳」だと思った。


今までは「プレッシャーだな、出来るかな、不安だな」という生命が出ていたが、今回は不思議とそうしたネガティブな生命が出てこなかった。


広宣流布の使命を「嬉しい」と感じられるようになったことこそ、日々の地道の学会活動の最大の「功徳」なのかもしれない。


【池田先生の激闘なくして、今日の聖教新聞の充実も発展もない。ある時は、会合で指導を終えた後、疲れた体を押して聖教新聞の割り付けや、見出しなどにも目を通した。また、ある時は、降坂時間のギリギリで自らの原稿に、何度も何度も手を加えられた】


【先生は述べている。「聖教の発展を考えない日は、一日たりともない。聖教と共に!広宣流布の尊き同志と共に!これが、私の毎日のモットーである】
                       (2024・4・20付け聖教新聞2面より)