極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

創価三代会長の優しさと強さ ①牧口先生

2017年大白蓮華4月号 幸福と平和を創る智慧より


 (牧口先生が)北海道で教師をされていた時は、雪が降る日など、生徒が登校してくるのを迎えに行き、下校の時には送っていかれた。体の弱い子が皆に遅れないように気を使いながら、小さな生徒は背中におぶって、大きな生徒は手を引いてー。


 また、お湯をわかして、子どものあかぎれだらけの手をとり、お湯の中に静かに入れてあげた。「どうだ、気持ちがいいか」「うん、ちょっと痛いけど」ー美しい光景です。


 牧口先生は、東京に来られてからも、名校長として有名だったが、権力のあるものにへつらわないものだから、いつもにらまれていた。それで、いつも迫害を受け、左遷です。


 貧しい家の子どもだけが集まる小学校(三笠小学校)に赴任した時もある。雨が降っても、傘もない子が、たくさんいるほどの貧しさだった。牧口先生は弁当を持ってこられない生徒のために、自腹を切って、豆もちや食事を用意した。ご自分も八人の大家族を抱えて大変だったころです。しかも、先生は、子どもたちの気持ちが傷つかないように、用意した食事を用務員室に置いて、皆が自由に持っていけるようにしたのです。


 優しい牧口先生は、「子どもたちの幸福のためならなんでもしよう」という心だった。
個性を殺す「詰め込み教育」などで苦しむこどもたちを思うと、何とか救ってやりたいと「気が狂いそうなほど」だったと書き残されている。


 また、子どものためなら、どんな権力者にも一歩も引かなかった。「怒り」をもって戦われた。当時、絶大の権威をもっていた「視学」に対して、いたずらに教育を画一化させるとして『視学無用論』を堂々と主張したほどです。


 だから、権力ににらまれた。だから、民衆には慕われた。
牧口先生が学校を変わるとなると、生徒は泣きだし、父母から教職員まで、先生を慕って、すすり泣くほどだったという。


 そして牧口先生は、最後は軍国主義に抵抗して獄死です。
先生は、わが身はどうなろうと、民衆を不幸にする軍国主義は許せなかった。間違った思想は許せなかった。


 優しさは、悪に対しても強い。
仏法では、「怒り」は善にも悪にも通ずると説いている。善のための怒りは必要なことです。自分の感情だけで怒るのは畜生の心です。人間は偉大であるほど、その愛も大きい。
愛が大きいから強いのです。優しいのです。

デマを見抜き打ち破れ


 御聖訓に照らし、また自身の体験から「成仏の直道は謗法を責めぬくことにある」
と確信して、このブログを立ち上げたが、明日で早、2ヶ月になる。



「極悪と戦えば極善となる」とブログのネーミングを決めたとき、「さんざん叩かれるんだろうな~」と思いつつ、覚悟を決めて創価カテに登録した。



 謗法を呵責するといっても、ネットで果たしてそれがどこまで可能なのか不安もあった。また、記事を更新しながらも、ブログでやる意味があるのかどうか、迷ったこともあった。しかし、自分の友人がネットの誤情報を丸ごと信じていたのをみて、改めてネットの影響力の大きさを感じられずにいられなかった。生命力が落ちているときに、それらを悪縁にふれると、紛動されて信心が破られていく因となってしまう。



『その言葉に、確かな裏付けがあるかどうかを、きちんと見きわめていかねばならない。何でも鵜呑みにして、信頼してしまう無邪気なお人よしであっては、「悪」の勢力につけ込むスキを与えてしまう』 (1990・6・8 池田先生のご指導より)





 今まで、宗門のことを主にとりあげてきたが、悪はそれだけではない。
最近では、内部でありながら「執行部云々」といって聖教新聞に掲載されている新人間革命の文章は先生のものではないだのデマ情報を流し、学会を誹謗する者たちもネットでちらほら見かける。これらは、異体同心の団結を乱そうとする魔の働きであり、決して紛動されてはならない。

日蓮仏法はおすがり信仰ではない

観心本尊抄で、
『問うて曰く十界互具の仏語分明なり然りと雖も我等が劣心に仏法界具すること信を取り難き者なり』御書P241


(問うていう、十界互具については仏が説かれた経文は明らかになったが、われわれ凡夫の劣った心に仏界を具しているとは、とうてい信じられない)


 質問者は、「われわれのような劣った者に仏界が具わっていることが信じられない」と言っている。


 これは、当時の日本人の一般的な考え方だったと思われる。
当時大流行していた念仏宗は、本尊を己心の外にみて、阿弥陀如来に救ってもらうと説く。



 我々創価学会員も、「御本尊へのおすがり信仰」、祈りが念仏風にならないように気をつけなければならない。


 凡夫は、大聖人のような偉大な仏様にはとうていなれないから、
「御本尊に、仏さまに救ってもらいましょう」


 池田先生のように偉大にはなれないから、
「池田先生に、助けてもらいましょう」
 と考えるのは、


 「阿弥陀さまに救ってもらいましょう」


という他力本願の念仏信仰と完全に同じになってしまうからである。


 自分にも大聖人と同じ仏界があるんだから、必ず開けるんだ、開けないわけがないと強く信じて祈ることが大切になる。


 「日蓮正宗念仏風」の記事でもとりあげたが、大聖人が『観心本尊抄』で繰り返し述べられている十界互具・一念三千を否定するような発言をしているのが阿部日顕である。


『大聖人と同じになるなどというのは大謗法』
『大聖人直結などとは全くのたわごと』
『凡夫即極又久遠元初自受用身のことであり、一般の凡夫のことではありません』
(H9 10・15 発行 創価学会偽本尊義を破す 日蓮正宗宗務院)


 大御本尊を『己心の外』におき、念仏まがいに大聖人や大御本尊を神格化している現在の宗門には、大聖人や日興上人の血脈は流れていないと断言する。