極悪と戦えば極善となる

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一念三千を無視した宗門の本尊観

 日蓮大聖人は、観心本尊抄の前半部分で本尊のことを述べず、まず『十界互具・百界千如・一念三千』のことを繰り返し述べられている。それに対し質問者が、六道や四聖の生命が人間に具わっているとなかなか理解しようとしないので、十界(十界互具)とは生命のことだと理解させるため、様々な比喩を用いられる。


『世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや』御書P241
(世間の無常、はかなさを感じられることは人界に二乗界がある証拠ではないか)


『無顧の悪人も妻子を慈愛す菩薩界の一分なり』(同)
(全く他人を顧みることのない悪人でさえ、自分の妻子には慈愛の心をもっている、これは菩薩界の一分ではないか)


しかし、仏界だけは、容易にあらわれがたいので、身近な例をとって示すのは難しいが、人界に具わる九界が明らかになることで、仏界があることを強いてこれを信ずるべきであり、疑ってはならないと述べられる。


 次に、法華経方便品の『唯一大事因縁(ゆいいちだいじいんねん)』(仏がこの世に出現した目的)の文を引かれる


『衆生をして仏知見を開かしめんと欲す』
(衆生の中にある仏の智慧を開かせたい)


 これは、衆生の生命に仏界の智慧が本来、具わっていることを意味する。
「開かせる」のはもともと具わっているからである。


この『欲令衆生開仏知見(よくりょうしゅじょうかいぶっちけん)』、衆生の中に眠っている本来具わっている「仏界の生命」を開かせたいというのが、仏の願いなのである。


 しかし、宗門は、いまだにこの十界互具・一念三千を無視した『神秘的な本尊観』にとらわれ、大御本尊を何か超能力のような特別な力が宿っている本尊に祭り上げ、「戒壇の大御本尊を受持の対象から外した」と学会を誹謗し続けている。


 三大秘法である「本門の戒壇」、本門の本尊をご安置する場所は、『非法・悪法を止める』清浄な場所でなくてはならない。C作戦発動以後、前法主である日顕自ら身延へ急接近し、身延の僧侶が大石寺参詣のおり破折の一つもせず歓待、その後も法華講員が身延へ平然と参詣。そしてついこの前も檀家総代が法華講員を引き連れて神社へ参詣し、その行為を見て見ぬふりをするような現在の謗法まみれの大石寺は、いかに大御本尊がご安置されていようが、身延同様、魔の巣窟であるがゆえに、学会のほうが宗門を「義絶」、大御本尊を受持の対象から外し、完全に「大石寺離山」したのである。