猫さんへ⑦
「学会は在家なので僧伝は受けていませんから」
途中の人師からの「僧伝」を受けるより、大聖人から「相伝」を受けるほうが大切ですよね。
「此の品の時最上第一の相伝あり、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文までに経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり」御書P781
御書の通りに如説修行している法華経の行者を""必ず仏の如くに""敬っていくことこそ、
大聖人からの相伝を受けたことになるのです。
それは、日蓮正宗要義の「随力弘通の任に当たる本宗僧俗のすべてが僧宝である」という言葉にもつながるのではないですか。
「在家だから」「信徒のくせに生意気な」と仏子を見下し、謗っている者は、法を謗ることになり、たとえ僧侶であっても大聖人からの相伝を受けたことにならないのです。
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