極悪と戦えば極善となる

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出家功徳御書 分析

弘安二年五月にあらわされたとされる「出家功徳御書」(御書全集P1251~)は、巷で「偽書説」がささやかれているが、他の御文との違いを比較分析してみたい。


① 【身は無智無行にもあれ形出家にてあらば里にも喜び某も祝著たるべし】


無智であっても、仏道修行を怠っていても、""形が出家""であれば、里(父母)も喜び某(大聖人)も喜ばしく思う、というもの。



しかし、度重なる苦境に世をはかなみ、「出家したい」と願い出た四条金吾に
大聖人は出家を思いとどまらせている。


「おもひのままに入道にもなりておはせば・さきざきならばくるしからず・又身にも心にもあはぬ事あまた出来せば・なかなか悪縁・度度来るべし、このごろは女は尼にありて人をはかり男は入道になりて大悪をつくるなり」
                         P1148 四条金吾釈迦仏供養事


(思うがままに入道になるのは、先々のことならよいでしょう。しかし身にも心にもそぐわないことがおこると、仏道を妨げる悪縁はたびたびやってきます。
このごろは女は尼となり男は入道となって大悪をつくっています)


形ばかり「出家」しても、
心が鍛えられていなければ、すぐに悪縁に染まってしまう、と。
①とは真逆の御文である。もし①が大聖人のご真筆であるなら金吾の出家の願いを大喜びされたのではないだろうか。


さらに


「受けがたき人身を得て適ま出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著(き)たる畜生なり」


                          松野殿御返事 P1386
これも①とは真逆。


他にも同類の御文はあり、「出家功徳御書」は後世の何者かが手を入れた偽書の可能性は高い。


余談だが、日顕はこの「松野殿御返事」を引いて自ら「法師の皮を着たる畜生」であると白状?している。


「麻雀なんて昔はよくやってましたよ。宗門の僧侶が。もう麻雀やんなきゃ、人でないっていうほど(笑) (中略)それから囲碁、将棋。私は囲碁をやりました。しかし、ともかく、こういう者を【遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり】と大聖人の御書に説かれておるけれども、これはみんな知っているけれども、それについて実際は大聖人様に「畜生だ!」って言われてんだけれども、まー、やっぱりでも、そのへんはピンとこない」
           (1994・2月 全国宗務支院長会議) 地涌 743号より一部抜粋