極悪と戦えば極善となる

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出家功徳御書についての考察

前回に引き続き、「出家功徳御書」について


②【されば其の身は無智無行にもあれ髪をそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり】 P1251


無智であれ、無行であれ髪を剃って袈裟をかける形(姿)には天魔も恐れをなす、というもの。



しかし「盂蘭盆御書」P1428 では、


「いまの僧等の二百五十戒は名計りて事を戒によせて人をたぼらかし一分の神通もなし」
                                  


と今の""戒をたもっている僧""といっても名前ばかりで、その戒律に事をよせて人をたぼらかしてほんの少しも力などない、と「形だけの僧侶」を痛烈に破折されている。これも②とは真逆。



大聖人は、富木常忍が出家を願ったときも、金吾同様に
""現実逃避のための出家""を思いとどめさせている。
常忍は、主君の死、母の死、妻の病気など悲しい出来事が続いて世の無常を感じ、出家して大聖人の側で仏道修行したいと願いでる。それに対する返事が「四信五品抄」とされ、大聖人は形の上で戒をたもつことは必要ないと諭されている。


出家功徳御書では僧侶という「形」にやたらとこだわっているが、「心こそ大切」と門下に呼びかけられた御指導とは、正反対。


仏道修行にも励まず、学ぼうとせず「袈裟をかけただけで天魔も恐れをなす」など堕落している坊主にとってこれほど都合のいい御文はない。


「出家功徳御書」の作者?は、
「大集経」などの文を用いて自分たち出家にとって都合のよい言葉を羅列し、それをあたかも大聖人があらわされたように偽装し、権威化を図ったのではないだろうか。



【偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得う可き事】
                                (日興遺誡置文)