極悪と戦えば極善となる

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なかなか御本尊を信じれなかった阿部日顕

 日顕の""不信心""を象徴する、こんなエピソードがある。


 広妙寺の平山広篤(ひらやまこうとく)が、「信心してきて一番苦しかったことは何か」と尋ねたときのこと。


「なかなか御本尊を信ずることができなかったことだ。今でも本当に信ずることができないでいる。」


 在家の者ならともかく、出家の身でありながら「御本尊を信ずることができない」でいるとは、なんとも情けない話。


 日顕は御本尊に不信を抱いているので、題目に関してもこのような発言をしている。


「お題目を唱えて、我々の仏界涌現(ぶっかいゆげん)、仏界涌現っていうんだ。これはまさしく大謗法だよ」(平成6年8月 全国教師講習会)


「そんな簡単にね、我々凡夫が、仏界があらわれたり、悟ったりできるんだったら、末法の凡夫はみんな仏になってんだよ」(同)


「題目を唱えたからといって、直ちに九識の境界を得ることができたなどということは、おそらくない」(平成16年 8月 夏季講習会)


 このような発言からも、日顕にはまったく題目への確信がなかったことが伺われる。
我々凡夫が題目を唱えからといって「成仏できない」と断言している。



 日蓮大聖人は「凡夫即極(ぼんぷそくごく)」と述べられている。
また、「生死一大事血脈抄」では、


「久遠実城の釈尊(大聖人)と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別なしと解(さと)りて妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈とは云うなり」
(御書P1337)


 「久遠実成の釈尊」「皆成仏道の法華経」「我等衆生」、この三つに全く差別がないと強く確信して妙法蓮華経と唱えるところを生死一大事の血脈があると明確に述べられている。


 中興の祖といわれた二十六世日寛上人は、大聖人と「不二」の境涯になることが仏法の真髄であると強調されている。


「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕(あらわ)るるなり」(文段集P676)
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集P548)



日顕の発言は、大聖人、それを受けられた日寛上人のご教示を真っ向から否定するもの。法主に就任する以前は教学部長という要職にありながら、一体、何を学んできたのか。


要するに、""自分たちの権威が高めるため"" 日蓮大聖人を、我々とはかけ離れた「超絶的な仏」へと仕立て上げたほうが、都合がよかったのだろう。





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