極悪と戦えば極善となる

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追撃の手をゆるめるな

 広宣流布においては、日蓮大聖人を裏切り、同志を裏切った悪人を、徹底的に追及しなければならない。日本的な「水に流す」とか「みそぎ」とかいう慣習は、一見、寛容のようであって、じつは『悪への怒りがなく、けじめがない』だけである。「もう、この辺でいいだろう」は、精神の敗北である。



 日蓮大聖人も、日興上人も、どんな小さな悪も許されなかった。
仏法は「人情論」ではない。「正義の大闘争」である。



 戸田先生も笑って言われていたが、大聖人の「口の悪さ」には、だれもかなわない。


 世間で尊敬されている、極楽寺良観に対しても、
『蚊(か)のような、虻(あぶ)のような、蝦蟆(がま)のような法師である』(御書P1162)
とおおやけにいっておられた。


 『釈尊も、同じように厳しく経文で言っておられるのだから、それでよいのだ』(同)
とも書いておられる。



 日興上人も、「五老僧」とその一味を、最後の最後まで許しておられない。
「五人所破抄」を弟子に書かせたのは、身延離山から数えて、なんと四十年目である。ご入滅直前の「日興遺誡置文」でも、厳しく「五老僧たちの立てた宗義は、ひとつひとつ、すべて師匠である日蓮大聖人の化導と違っている」(P1617)と破折しておられる。


 最後の最後まで、追撃の手をゆるめておられない。
正義の勝利のためには「徹底する」以外にない。「執念」以外にない。
中途半端は、敵を喜ばせるだけである。


      (輝きの人間世紀へー御書とその心 池田大作 ""退転・反逆""より)