極悪と戦えば極善となる

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謗法の者を対治せよ

 『速(すみやか)に謗法の者を治すべし若し爾(しか)らずんば無尽の祈請有りと雖(いえど)も災難を留む可からざるなり』(御書P85)


 (すみやかに謗法の者を対治しなさい。もし、そうしなければ、無量の祈りがあっても災難はとまらない(祈りは叶わない))


 どんなに祈っても、謗法を対治しなければ、不幸は克服できず、祈りはかなわない。
これが御書の仰せである。ゆえに、私どもは、謗法の日顕宗を対治するまで、断じて戦いぬいてまいりたい。


 このあと日蓮大聖人は、『謗法の僧を厳しく対治することは罪になるか』との問いを設けられ『必ず厳しく対治しなさい。全く罪などない』(同)と経文(涅槃経)を引いて明快に断言されている。『苦治(くじ)』、すなわち仏敵が苦しむほど厳しく対治してこそ、祈りは叶う。泥を捨ててこそ、清水が飲める。雲を払ってこそ、太陽の光を浴びられる。
ガンは切除してこそ、薬も効き、健康体になる。


 極悪は、徹底して""強く""責めなければいけない。
この御文に照らして""責めすぎる""などということはない。
大聖人は、『邪悪の僧を由比ヶ浜に並べて斬首せよ』(P287)とまで言われている。


 当時の武家社会に即して厳しい表現になっているが、いわんとするところはその烈々たる謗法呵責のご精神である。それを深く拝するがゆえに、今、学会も、日顕宗を責め抜いている。ゆえに、功徳もいやまして大きく、早く出ている。これが仏法の不思議なる力用なのである。
       (輝きの人間世紀へー御書とその心 池田大作)