極悪と戦えば極善となる

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怨嫉を生む原因

 日蓮大聖人は観心本尊抄の中で、『説己心中所行法門(せっこしんちゅうしょぎょうほうもん)』(御書P239)という摩訶止観の序文で記された言葉を引かれている。「己心の中に行ずる所の法門を説く」と読み下す。


 これは、衆生の己心に諸法が具わっているとして一念三千を説いたが、それは天台自身の己心の法門であるという意味で、現代風にいうと、自分自身の中に大宇宙が収まっていて、自分の身のまわりでおこる全ての現象は、その人間の生命(一念)の反映であるということである。


 仏法の基本中の基本は、この『自分の内に法をみる』ことである。
『自分の外に法をみる』ことをすれば、外道となってしまう。


 池田先生は、『己心の内に法をみる』大切さについて、新・人間革命でこのように御指導されている。


『自らが妙法蓮華経の当体であることが信じられなければ、本当の意味での自信がもてず、自分の心の外に幸せになる道を求めてしまう。すると、どうなるか。周囲の評価や状況に振り回されて、一喜一憂してしまう。たとえば社会的な地位や立場、経済力、性格、容姿など、すべて人と比べるようになる。そして、わずかでも自分の方が勝っていると思うと、優越感を抱き、自己を客観視することなく、過剰に高いプライドをもつ。ところが、自分が劣っていると思うと、落胆し、卑屈になったり、無気力になったりしまったりする』


『さらに人の評価を強く意識するあまり、周りのささいな言動で、いたく傷つき、""こんなに酷いことを言われた"" ""あの人は私を認めていない"" ""全く慈悲がない"" などと憎み、恨むことになる。また、策に走って歓心を買うことに躍起となる人もいる』


『実は、怨嫉を生む根本には、せっかく信心をしていながら、わが身が宝塔であり、仏であることが信じられず、心の外に幸福を追っているという、生命の迷いがある。そこに魔がつけこむんです』
             (2016・4・21付聖教新聞 新・人間革命 力走二十四より)