極悪と戦えば極善となる

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本尊義を語りながら観心ができていない方々

 観心本尊抄で""観心""について大聖人はこう述べられている


『観心とは我が己心を観じて十法界を見る是(これ)を観心と云うなり』 御書p240


(観心とは、自分自身の心(生命)を観察して、十法界(十界)を見ることである。これを観心というのである)


 観心とは、自分の心を観察し、それによって自分と宇宙根源の法を覚知することである。しかし、凡夫が自力で「観心修行」するのは難しい。確かなコンパスがないと、禅のような瞑想修行でありがちな""魔境""へと迷妄する危険性がある。


『明鏡に向かうの時始めて自具の六根を見るが如し』(同)


(曇りのない鏡をみて、はじめて自分の六根をみることができるようなものである)


六根とは、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚認識器官のこと


凡夫が自分の心を正しく見るには""明鏡(みょうきょう)""が必要である、と大聖人は仰せである。明鏡とは、観心の意義を示すこの章では『法華経並びに天台大師所術の摩可止観等の明鏡』(同)と述べられている。


 日寛上人は、


我が己心を観じて=御本尊を信じて
十法界を見る=唱題をすること


であるといわれている。


己心に十界を観ずるといっても""仏界""があらわれるかどうかが問題になる。


 さて、この創価カテには、本尊義を語りながら""観心修行""ができていない、自分の心が正しく見えていない""迷妄""していらっしゃる方がいる。池田先生を誹謗中傷しながら、自分の都合次第で先生の御指導を引用し、学会員を批判する道具するなど、先生利用も甚だしい。一体、今までどんな信心をしてきたのか。


「本尊義」「血脈相承」のうんちくを語る暇があったら、以下の御聖訓を心肝に染めるべきであろう。


 『但し妙法蓮華経を唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり、麤法は今経にあらず今経にあらざれば方便なり権門なり』御書P383


 『都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず』(同)


 『若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し』(同)



 池田先生は、「修羅の生命」について、このように述べられている。


【修羅は心が曲がっているから、自分についても、相手についても、正しく見ることができない。「慢」という「ゆがんだレンズ」を通して見る自己像は常に大きく、素晴らしい姿をしている。だから、人から学べないし、自分を反省することもない。人間としての成長もない】


【修羅は、自分をだまし、人もだまし、うそにうそを重ねた人生を生きている。本当の充実もなければ、生命空間の拡大もない。小さな幻想の自我にしがみつき、虚勢を張りながら、哀れに生きているのです】


            (法華経の智慧 第四巻 修羅界ー他人を見下す慢心より)