極悪と戦えば極善となる

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法華経は生命論

 法華経は『難信難解』(信じ難く解し難い)といわれる。


それは、法華経の表面上だけを見ると""昔々、釈尊が舎利弗や阿難など弟子たちを救いました""という昔話のように思えるからだ。そのまま読むのは""文上読み""となる。


文上読み=経典の表面上だけみて読む
文底読み=経文の表面上だけみて読むのではなくて、もっと深いところ、その経典が本当    に伝えたいこと、言いたいことを読む


 法華経は、単なる昔話ではない。
法華経は""我々の生命""のことを言っている。
我々の生命の中に仏界も九界も存在している、ということを説いている。
これが法華経の文底読みとなる。


大聖人は観心本尊抄で百界千如と一念三千の違いについて述べられ、一念三千は有情も非情もともに成仏する法理であることを明かされ、生命をもたないとされてきた非情の草木成仏ということがもっとも難信難解であると述べられている。


『問うて曰く百界千如(ひゃっかいせんにょ)と一念三千と差別如何、答えて曰く、百界千如は有情界(うじょうかい)に限り一念三千は情非情(じょうひじょう)に亘る』
                                御書P239


(問うていう、百界千如と一念三千はどう違うのか。答えていう、百界千如は有情界(人間や動物)に限り、一念三千は有情と非情(草木や国土)の両方にわたる)


ここで大聖人は「草木成仏」について述べられる。
喜怒哀楽の情をもたない、「非情」の草や木、花などにも仏性があり成仏するなどということは、信じがたく解しがたいこと(難信難解)であるが、成仏のためにはそれを信じることが不可欠であると示される。


『教門の難信難解』
①法華経が爾前経と相反するため
 爾前経では""二乗不作仏""とされていたのが、法華経迹門では""二乗作仏""を説くこと
②爾前経と法華経迹門で""始成正覚""(釈尊は長年修行した結果、仏になった)を説きながら、法華経本門では""久遠実成""(釈尊はもともと仏であった)を説いているため


 「一仏二言」「水火」の相反する説法であり、それゆえ法華経は信じ難い。
久遠実成(くおんじつじょう)は、釈尊(人間)には、もともと仏界と九界が具わって
いることを明かした。理の一念三千といっても、法華経迹門は、真の一念三千ではなく、百界千如ですらない。それは""今は、仏ではないが、仏道修行に励めばいつか仏になれる""と説いているからである。


 我々は、この『迹門』の考え方がなかなか抜けない。
『長年、信仰しているから信心が深まっていく』と思い込んでいる。そうではなく、もともと『仏界』の生命があるのだから、入信間もない人でも仏の生命がでることがある。


『観門の難信難解』
①我々凡夫の中に釈尊のような仏の生命が具わっているという一念三千の法に関するもの
②人間や動物だけでなく、草や木、非情にも色心の二法・十如是が具わっていること


 これは境涯が高くならないと、なかなか心の底から理解できない。