極悪と戦えば極善となる

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日蓮正宗""念仏風""

 日蓮大聖人は、「日蓮は貧窮にして下賤」「旋陀羅が子」等々、社会的には一番身分が下で虐げられている側の人間であると自ら仰せである。


 「観心本尊抄」講義のおり、講師の方は、こう言われた。


『大聖人は、一念三千を身で生きたんです。どんな人にも仏界があることを証明されたんです』


 ""私を見なさい。一番貧乏で、着るものも食べるものもなくて、身分が低くて、いじめられていて、しかも罪人である。こんなに虐げられている自分であっても、こんなに偉大な生き方ができるんだ。だから、みんなも私のように戦いなさい""


 日蓮大聖人は、正しく法をひろめていった故に、大難が嵐のようにおこり、激闘の生涯を終えられた。そして、弟子たちにも""日蓮が如く""と呼びかけられている。



 正宗教学は、こうとらえない。


『大聖人と同じになるなどというのは大謗法』
『大聖人直結などとは、全くのたわごと』(92年8月)
『凡夫即極又久遠元初自受用身のことであり、一般の凡夫のことではありません』(H9・10・15発行 創価学会の偽本尊義を破す 日蓮正宗宗務院) 


要するに、大聖人を神格化して、我々とはほど遠い存在の""仏様""に祭りあげてしまっているのである。


これでは、我々凡夫は、とても大聖人様のような仏にはなれないから、
""偉大な大御本尊様にすがって、助けてもらいましょう""
という念仏信仰と同じである。


 ""日蓮正宗念仏風""とでもいえるだろうか。


 御本尊を己心の外に置いているから、こういう考え方になるのである。


 某氏が相変わらず「本尊義、本尊義」とのたまっているが、
日蓮正宗教学のいうところの本尊義とは、十界互具、一念三千を無視した神秘的、呪術的な本尊義なのだろう。


 観心本尊抄で大聖人はこう仰せである。
『一念三千を識らざる者は仏・大慈悲を起こし五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の首に懸けさせ給う』P254


(一念三千を知らない末法の衆生には、仏は大慈悲をおこし、妙法五字の内にこの(一念三千の)珠を包んで、末代幼稚の凡夫の首にかけさせるのである)


 また、日寛上人は以下のように述べられている。


『問う、妙法五字のその体何物ぞや。謂く、一念三千の本尊これなり、一念三千の本尊、その体何物ぞや、謂く、蓮祖聖人これなり』


『我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり。「幼稚の頸に懸けさしめ」の意、正しく此に在り。故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力に励むべし』


 そもそも某氏は日蓮仏法を学びながら、基本中の基本である""己心の内に法をみる""ことができず、お飾り教学で池田先生や学会員を見下し、ネット媒体で愚痴をまき散らしていること自体、自分が""外道信仰""になってしまっていることに、そろそろ気づかねばなるまい。