極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

慈悲魔に打ち勝つ

""日顕宗なんて相手にするな。彼らは騙されてかわいそうだ。聖教新聞紙上であそこまで叩くのはどうかと思う""というのは、まさしく慈悲魔におかされた姿に他ならないだろう。しかし、その魔に誑かされているというのは、なかなか本人は気づかない。


 慈悲や人情もその為に正法を見失えば、敗北の因となる。
ゆえに正法正義への峻厳な判断が必要になる。正法破壊の魔とは徹底して戦う。
この強靭な一念に護法の功徳も生まれてくる。



                       (参考文献 仏法の見方考え方)


 慈悲魔については以前もとりあげたが、要注意中の要注意の魔だ。
もしかして、一番手ごわい魔かもしれない。人に尽くせと教えられている学会員さんは、つい""かわいそう""という心がでてしまうからだ。


 私は学会三世で、祖父母や両親の福運もあり、温かい創価家族の庭で育った。
ゆえに他人に対しての警戒心というものが割合薄かったように思う。


 今は、このようなタイトルでブログを立ち上げているが、かくいう自分もかつて『どんな人にも仏界があるのに』新聞紙上で日顕や山友のことをあそこまで叩くのかわからない時期があった。慈悲魔という言葉すら知らなかった。


 慈悲魔にたぼらかされると、可哀想という心が邪魔して、自分のためにも相手のためにもならないことをしてしまう。


 
 お付き合いをしていた相手に都合よく使われて、わがままを指摘もせず、とことん甘やかしてしまったことがある。それを見かねた女子部の先輩から厳しく言われたことがある。


『まだ気づかない?相手はランちゃんが自分に惚れていることを知ってて、いいように利用しているだけだからね! 』


それまでどんな酷い扱いを受けても、黙ってずっと耐えていたが、理不尽な仕打ちを受けじっと耐えているのは愛情でもなんでもないことに気づいた。
はじめて""強くなりたい""と心から思い必死で祈った。


そして、『もう、いい加減にして!  』と今までにない強い口調で怒って言い、別れを告げた。相手は私の激しい一面をみて、驚いていたが・・


そういった紆余曲折もあり、哀しいけれど世の中は悪いことをする人間がたくさんいて、心の隙を狙っていることも学んだ。人生には、ときには鬼にならないといけないときもある。


さて、どうやら私のHNを使って、他者のブログに書き込みをし、対立をおもしろがっている不届き者が徘徊しているようである。悪は日顕宗だけではないようだ。