極悪と戦えば極善となる

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謗法を責め抜こうとせぬ宗門の惰弱さ

 『謗法を容認する日蓮正宗中枢』でも大石寺檀家総代・井出氏の謗法行為をとりあげたが、その井出氏が8月13日、またもや三宮神社の祭礼に参加したようである。創価新報によると、総代の井出氏のみならず、多数の法華講員までこの祭礼に参加していたというのだから、開いた口が塞がらない。



 現法主である日如は、7月16日付の大白法で『(神社に)詣でたり祭礼に関われば謗法与同となり、災難と不幸に見舞われてしまう』『悪鬼魔神の片棒を担いでしまったという業が、その人の業に刻まれる』等々と述べながら、何故この井出氏の謗法行為を放置・容認しているのだろうか。



 実は日蓮正宗内のこのような""馴れ合い""は、今に始まったことではなく、昔から謗法に対して甘く、断固とした対応ができていなかった。



""神が本地で仏を垂迹""とする『神本仏迹論』という邪義を唱え、僧籍をはく奪されていた悪僧・小笠原慈聞を宗門は戦後、特赦し、彼の僧籍を復帰させている。「宗門の僧として死にたい」との懇請があったためと言われている。



 『狸祭り事件』で、謗法呵責の精神がない宗門の僧たちは、逆に小笠原の謗法を呵責していった戸田先生以下学会の青年部たちに非があるとし、戸田先生に『謝罪文の提出』
『大講頭罷免』『登山停止』の処分を下した。



【戸田は、大聖人の教えに違背した大謗法を責めぬこうとせぬ宗門の惰弱さが情けなく、
無念でならなかった。破邪なくして顕正はない。いや、破邪なきは、結果的に邪悪への加担となり、同罪であることを知らねばならない】(新・人間革命27巻 正義より)



日興遺誡置文の最後にこう結ばれている。


『万年救護(くご)の為に二十六箇条を置く後代の学侶敢(あ)えて疑惑を生ずる事勿(なか)れ、此の内一箇条に於いても犯す者は日興が末流に有る可からず』


(末法万年の衆生を救護、救済するために、二十六箇条を書きおく。後の世の僧侶は疑いを抱くことなく、これを守り、実践していきなさい。このうち一箇条でも破る者は、日興の末流ではない)


 波木井実長の謗法を容認した民部日向のように、檀家総代の謗法を容認している日蓮正宗宗門は、日興上人の末流ではなく、「五老僧の末流」に成り下がってしまっている。