極悪と戦えば極善となる

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心がひねくれている末法の衆生

 大聖人ご在世当時、自分の己心に十界の生命、なかんずく仏界が具わっているということが、常識的に信じられないことだったようである。


 観心本尊抄の前半部分で、疑い深い衆生が、そのことを繰り返し訴えている。



『問うて曰く自他面の六根共に之を見る彼此(ひし)の十界に於(おい)ては未だ之を見ず如何が之を信ぜん』御書P240


(自分の六根や他人の六根を見ることはできても、十界については、他人の生命にも自分の生命にも見たことがない。どうしてこれを信じられようか)



『問うて曰く・・・数(しばし)ば他面を見るに但人界に限って余界を見ず自面も亦復(またまた)是くの如し如何が信心を立てんや』P241


(しばしば他人の顔を見ても、ただ人界ばかりで他の九界は見られない。鏡を使って自分の顔を見てもまた人界ばかりなのに、どうして十界を具えていると信じられるだろうか)




 このように『十界』を人間の『生命』のことだと、とらえられないから『自分の顔を鏡でみても人の顔がそこにあるだけだ』と思うのである。


 十界を生命のことだとわからせる為に大聖人は、このように説明される。


『答う数ば他面を見るに或時(あるとき)は喜び或時は瞋(いか)り或時は平(たいらか)に或時は貪り現じ或時は愚(おろか)現じ或時は諂曲(てんごく)なり』(同)


(答えていう。しばしば他人の顔を見ると、ある時は喜び、ある時は瞋り、ある時は穏やかに、ある時は貪りの相を現じ、、ある時は愚かさを現じ、ある時は諂曲(心が卑しく、へつらい、ねじ曲がっている)である)


『瞋るは地獄・貪るは餓鬼・愚かは畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平らかなるは人なり』(同)


 このように他人の相にはすべて六道が具わっている。


『四聖(ししょう)は冥伏(みょうぶく)して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し』(同)


(四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)は、冥伏して日常生活では見えないけれども、まったく見られないわけではなく、詳しく探せば必ず見られるものである)



 「四聖は見かけることがあまりない」、これは末法の衆生の特徴をあらわしている。


瞋りの生命に支配されていたり、欲望に溺れる者、目先の好き嫌い・感情に振り回されている者、心が曲がり他人の揚げ足をとって自分が少しでも他に勝ろうとしている者で溢れているので""四聖はあまり見かけない""が、まったく見られないわけでなく、よく探せば境涯の高い四聖は必ずいると仰せである。そして次の質問者の問い、



『問うて曰く六道に於いて分明ならずと雖も粗(ほぼ)之を聞くに之を備うるに似たり、四聖は全く見えざるは如何(いかん)』



(問うていう、六道については、明らかというわけではないけれど、あなたの言われることを聞けば、我々に具わっているようである。しかし、四聖は全然見かけないのは、どういうわけですか)


 その問いに対して次に大聖人は""自身の心に具わる三乗""について説明される。
それはまた次回、とりあげたいと思う。


「四聖は全然見かけない」、これは悲しいというか、よく探しても、この質問者の周りには境涯の高い人は全くいないようである。依正不二の原理で、自分と同じ境涯の人が自分の周りには集まる。



 君が誰とつきあっているか、言いたまえ。
       そうすれば、君がどのような人間であるかを言ってあげよう 
                                 -ゲーテ