極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

小笠原への追撃の手を緩めなかった戸田先生

話が前後するが、戸田先生に登山停止の処分が下される前、小笠原慈聞は自身が唱えた「神本仏迹論」の邪義を反省するどころか、戸田先生と学会青年部に謗法を責められ、戦時中、小笠原の暗躍で獄死された牧口先生の墓前に連れていかれたことに恨みをつのらせ、「私の神本仏迹論は妄説である」と書いた謝罪状を取り消したパンフレットを全国に送付した。


このパンフレットを入手した戸田先生は激怒。
小笠原慈聞へ徹底して追及の手を緩めない宣言をする。


【去る四月二十七日、当学会青年部が笠原慈行(小笠原慈聞)を徹底的に責めたのは、神本仏迹論の邪義を以て日蓮正宗の清純なる法灯を乱したが為であった。そして、ひとたび謝罪の意を示したにもかかわらず前言をひるがえし、五月下旬に文書を以て再び神本仏迹論の正統を主張するに至ったのは、実にこれ天魔の所為と断ずべきものである】


【依って私は全学会員に対し、今後笠原慈行(小笠原慈聞)に遭うならば、いついかなる時、及び所は問わず、これと闘争し徹底的に追及すべきである事を指示したのである。吾人は笠原慈行(小笠原慈聞)を僧侶とは思わず、天魔の眷属と信ずるが故に世の批判及び全国信徒の毀誉褒貶はあえてかえりみず、ひたすら宗祖大聖人、御本尊の御仏意をかしこむが故に、
以上を宣言するものである】


【笠原慈行(小笠原慈聞)が手記を以て神本仏迹論の正統を主張するに至った五月中旬以来、吾人は日蓮正宗守護のために、御本尊の御仏意及び御開山日興上人御遺誡を遵守して、仏法破壊の天魔笠原慈行(小笠原慈聞)に対し、彼の魔力を破り去る日迄勝負決定の大闘争を
行うものである】


右、仏法守護の為 これを宣言す。
昭和二十七年六月十日 創価学会会長 戸田城聖

狸祭り事件Ⅲ

この不当な決議に怒った学会青年部は、宗会議員の一人一人に対して、徹底した説得を行い、決議の非を追及したため、しだいに情勢は変わっていきました。七月二十四日、日昇上人より戸田先生へ「誡告文」が出され、戸田先生より、


「宗内に於いてもあまりにも謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、況や宗外の邪宗徒をせめるときは宗開両祖の御金言に露ばかりも違わざる行動と信じます故に、御本尊の御前にして日蓮正宗の信者として恥じないと確信し大講頭職は辞しません」


等と述べた「御詫状」が提出されました。そこには、正義を主張して一歩も退かない決意がみなぎっています。その後、小笠原が戸田会長以下の学会幹部を告訴したため、警察の取り調べがありましたが、法主まで告訴したため、檀信徒の強い反発を受けて告訴を取り下げています。しかし、これだけ騒がせた小笠原に対して、宗門はなんの処分もしませんでした。


この問題は、宗門の僧侶が、大聖人の仏法の正義を根幹に行動するのではなく、僧の権威を守るためと信徒を下に見る行動によってのみ行動するという醜い本質を浮かびあがらせています。また、僧侶が小笠原の追及に拒否反応を示した理由は、「同じ穴のムジナ」として戦時中の謗法への加担の追及が宗門全体にまで波及し、わが身の謗法与同を責められることへの保身のためでもあったのです。 (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より抜粋)



以下、戸田先生が坊主の本質をえぐっている聖教新聞での「寸鉄」



【神本仏迹なんて言う坊主は化物(ばけもの)坊主である】
                      (昭和二十六年六月十日)


【化物坊主と寸鉄居士の大喝でおこった坊主があるげな。寸鉄居士その坊主を呼んでいわく「第六天坊主」と】                  (昭和二十六年七月一日)



【寸鉄居士よ御僧侶を坊主などと呼ぶと地獄に堕ちるぞ!寸鉄居士答えていわく「御僧侶を坊主といった覚えなく坊主を僧侶と呼んだ覚えはない」。】


【坊主が御僧侶の衣をつけたのと御僧侶が坊主の姿に見えるのとは皆信心のはかりではかるんだよ】                       (昭和二十六年八月二十日)




【宗会の決議では我等が会長が登山止めになったそうだな。物騒な世の中になったもんだ】


【忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思ったに、おほめはなくて、「登山まかりならん」とおしかりさ、弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ】


【何が「フン」だい。決まってるじゃないか。日本全国の信者の声だってさ、嘘も良い加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること計りを知っとる坊主の学会に対するやきもちだからさ】


【寸鉄居士会長先生に御伺いをたてたら「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ】


【寸鉄居士ニヤリとして日く宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類かニヤリ】
                              (昭和二十七年七月十日)


寸鉄居士・・戸田先生のこと

小さな奇跡



アイノカタチ アナ・ヴィージャ


早いもので母が亡くなってから早四年。
遠方に嫁いだので死に目には会えなかったが、池田先生と同志のお題目で、臨終の時まったく苦しまず眠るように亡くなったと父から聞いた。


私は実家にいたころ、母がものすごく苦手だった。気が強く悪気はないのだが、ズケズケとモノを言うので、キツイなー、早く実家を出たいと思っていた。


でも今から思うと、そんな気が強い母だったからこそ、難病にも負けなかったんだと思う。
病気になってからも、弱音ひとつはいたことはなかった。私にも「病気になったからといってもな、何にも怖いことなんか、ありゃあせんよ」とよく言っていた。


キツイ性格だけれども、それと同じくらい愛情も深い母だった。


余命あと一か月と聞いた後、ショックでお題目をあげようとしても最初は声にならなかったが、たくさんの同志の皆様の励ましのおかげで、「亡くなるまで悔いの残らないように最高の親孝行をしよう」と決意できた。


母の成仏をかけて10時間唱題を三回し、
亡くなったその日まで選挙活動や新聞啓蒙に挑戦。
最高の親孝行ができたと思っている。


やれるだけのことはやったので、後悔はない。
ただ時折、ふと寂しくなることもある。


そんな心を癒してくれているのが、近所のキジトラ猫ちゃんだ。


不思議な猫で、学会活動に頑張った日は、必ず我が家に来て、まるでそっと寄り添うように
一緒にいてくれる。この子に会えたのは「小さな奇跡」のように思う。


今、折伏中の親友にこう言われた。


「お母さんに変わって、ずっとそばにいてくれるのかもね」