極悪と戦えば極善となる

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悪を滅するを功と云い 善を生ずるを徳と云う


立正安国論の本文に入る前、宗門問題のことに触れ、
""日顕のような師匠に値しないような人間は御書を語る資格はなく、
御書の通りに現実に難にあい、獄に入り、広宣流布を進めた池田先生こそ御書を「身で」読んだ人なので、「師匠の心」と「我が心」を合致させないと、御書を正しく拝したことにならない""と語った。


「日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問わねばなるまい。そして魔が起(おこ)らないで、人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』でないか。然らば魔が起(おこ)るか起(おこ)らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」(牧口常三郎全集10)


このように初代会長牧口先生は、魔がおこらない宗門の信心の在り方に疑問をなげかけられているが、日顕は折伏弘教に励んで三障四魔がおこるどころか、仮にも日蓮正宗の法主というトップの座にいながら、芸者遊びにうつつをぬかし、売春婦とトラブルをおこす。こんな人間が「上人」と呼ばれ、人に指導していたのだから(現在の法主は日如)、まさに『悪道に人をつかはす獄卒』である。


上記のように極悪を責めていくと、即効で自分の中の魔が切れていく。
私は、前記事でも述べたように鬱など、念仏の害毒に何年も悩まされていた。
特に朝の憂鬱感は半端なく、動くのがおっくうでご本尊の前に座るのも辛かった。


しかし、立正安国論の御書講義中、三類の強敵・僭聖増上慢を指している
『阿練若に納衣にして空閑に在り自ら真の道を行ずと謂(おも)いて人間を軽賤(きょうせん)する者有らん・・・』(御書P21)の部分で,日顕の悪行を片っ端からあげていった翌日、モヤモヤしていた頭がスッキリして早朝からパワフルに動けた。


今まで朝つらくて動けなかったのに、急にどうしてだろう?と不思議に思って首をかしげていたが、ふと『極悪と戦えば、自身の細胞が極善となる』と聞いたことを思い出し、
""そうか、昨日の御書講義で日顕の悪事を責めた功徳だ""
と思い、喜んで感謝の唱題をした。


【悪を滅するを功(く)と云い善を生ずるを徳(とく)と云うなり】(御書P762)


池田先生はこの御文を通し、次のように述べられている。
「いくら善を積もうと思っても、それだけでは善を積めない。悪を責めることによって、自分自身の生命の罪も滅し、福徳が生じる。これが「功徳」である。」
師匠の仰せの通りに、これからも勇気をもって悪と戦っていく決意でいる。