極悪と戦えば極善となる

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梵我一如さんのご質問への返答

【戸田会長は、本当は本門戒壇の大御本尊様も他の御本尊様もすべて一緒だと知っていたのに、日蓮正宗に合わせる為に、本門戒壇の大御本尊様だけが、本門の本尊だと会員に言っていたのか】



戒壇の大御本尊について触れた最古の文献は、大聖人滅後280年の永禄四年、


『久遠寺の板本尊、今、大石寺にあり。大聖御存日の時の造立なり』
                    (保田妙本寺・日我 観心本尊抄抜書)


それ以前、戒壇の大御本尊に触れた文献はなく、御書にも戒壇本尊に対する記述が一切出てこないこと、戒壇本尊と大聖人が弘安三年五月九日にあらわされた日禅授与の本尊と大きさ、筆跡ともに一致していること、日興跡条条事の「弘安二年大御本尊」は、同年日興上人が授与された万年救護本尊(保田妙法寺蔵)である可能性が高い等々、最近の研究では
戒壇の大御本尊は、大聖人の御真筆(日禅授与本尊)の模写であるという見解が、ほぼ明らかになっています。


戸田先生は、日蓮正宗に合わせる為に‘’本門戒壇の大御本尊だけが、本門の本尊‘’と会員にいっていたわけではなく、「究極中の究極、本懐中の本懐」(文段集P452)と戒壇本尊を位置づけられている日寛上人の教学を用いられていたからだと思います。


【教学は日寛上人の時代にかえれって言ったのも、(戸田先生は)本当は日寛上人の教学もオカシナところがある事を知っていたのに、わざわざ何故そんな事をいったんだろう】



富士門流の有意性を示すため後世に定着していったものと思われる「大御本尊根本信仰」
の教義を日寛上人もそのまま順守され、その日寛教学を用いていた当時は「オカシイところがある」とは、思われなかったのではないでしょうか。


                              (続きます)