極悪と戦えば極善となる

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戒壇の意義は ""防非止悪""


 相変わらず、ひとつ覚えのように日蓮正宗の連中は「学会は弘安2年の大御本尊を受持の対象からはずした」と、わめいているが、そもそも戒壇の意義は『防非止悪』(自らが非法・悪法をとどめる信心を誓い、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める)



 自らが非法・悪法をとどめてこそ、『事の戒法』である。大聖人は有徳王・覚徳比丘の不惜身命の戦いを戒壇建立の条件として掲げられている。



 しかし、日蓮正宗僧侶は「不惜身命」の戦いをするどころか、前法主阿部日顕自ら禅寺に墓をたてるなどの謗法をおかし、開眼法要を行い、破折もしないでそのあと酒宴。信徒の供養を貪り、遊戯雑談にふけり、化儀をふりまわして信徒を睥睨。



『外見のみ謗法厳戒を立て内部には謗法容認の非行あらんことは物怪(もっけ)なり』
                              (日亨上人)


まさに、物怪、妖怪の所業。


 「禅天魔」と大聖人が喝破されている通り、阿部日顕の心身には、禅宗の害毒が深く深く染み込んでいたのであろう。


 天台宗比叡山延暦寺が真言や禅などに染まり『天魔の山』と化していることを大聖人は
「立正観抄」で厳しく呵責されている。


「当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事」p532


「当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり」
「爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり」P533


 大石寺はもはや「天魔の山」と化している。このような魔の住処には、いかに弘安2年御図顕の大御本尊がご安置されていようと参詣する必要はない。