極悪と戦えば極善となる

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なぜ山崎は宗門を自由に操れたのか

何故、山崎正友は宗門中枢に上手く取り入り、意のままに操ることができたのか。
それは、彼が宗門僧の特性を熟知していたからだった。


山崎は、前記事で述べた「正本堂の土地をめぐる告発事件」で宗門の高僧たちや細井日達管長とも直接、話す機会があった。



「坊さんは、しょせん金よ。プライドとかなんとか言っているが、金を与えれば、どんないみじき方でも、すぐコロリだよ」


「坊さんは正本堂などという建物より現金がよかったんじゃないかな」


「日達上人は、創価学会だけが大きくなると困るんだよ。妙信講(顕正会)を創価学会のあて馬にしようというのが本音だよ。学会が予想外に大きくなったんで、恐くなったんだよ。二十年前は食い詰めていたのに感謝もせず、坊さんってのはそんなもんだよ」


等々、宗門僧について分析している。




山崎は、日達法主のまえでは平身低頭を装い、口先三寸、心にもないお世辞でたらしこんでいったが、陰では「上野村の和尚さん」といって蔑んでいた。



「馬子にも衣装というが、村の和尚さんじゃ着せるものがない」


「尊い人は、御簾の後ろに隠れていただいているのが一番だ。出てこられると信者が失望する」


などと当時の後輩である学会員に本音を吐露していた。



後年、山崎は阿部日顕と結託して学会攻撃に狂奔するが、わがままで短気、世間知らずな日顕を利用しただけで、""御法主上人""に対する尊崇の念など、これっぽっちも抱いていなかったのである。