極悪と戦えば極善となる

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化法についてⅢ

法華経方便品の文「欲令衆生開仏知見」、衆生の中にある仏の智慧を開かせたいということこそ、大聖人の願いであったと思います。そのために衆生の仏界の生命を移す「明鏡」として御本尊をあらわされた。


化法とは、内なる生命の実相を示した真理で、それを外にあらわされたのが御本尊であり、「観心の本尊」=己心(自分の心の中)の一念三千、仏性を観じるための外の本尊(明鏡)なので、【十界互具・一念三千】という【内なる法】が前面に出ることになります。


その理由は、


「妙法蓮華経を唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(御書P383)


「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」(同)


大御本尊を拝んでいても、また、たとえ創価学会員で日寛上人の御本尊に唱題していても「自分の心以外に法を求めて」、おすがり信心をしているとしたら、それは麤法(劣悪な法)であり、間違った崇め方をしているということになります。


観心本尊抄で前半、本尊の話をせず、まず一念三千・十界互具の文証をあげられ、


「あなたの心の中に仏界がある」


と繰り返し述べられているのは、【仏とは凡夫と隔絶した特別な存在ではなく、衆生自身が本来、仏である】いうことを気づかせたかったからだと思います。十界互具の法理は、『本尊⇒拝んだら(外の対象から)功徳がもらえる、といったような‘’偉大な神仏という、自分の外に絶対的な対象をおいて、それにおすがりして拝んだら(絶対的な外の対象から)功徳がもらえる』、という、従来の宗教観を覆すものであるので、「我々のような劣った凡夫の生命に、偉大な仏の生命が具わっているなどというのは、到底考えられない」(御書P241)と質問者は不信の言葉を述べています。