極悪と戦えば極善となる

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魔の狙いは信心を破壊させること

広宣流布の途上に、障魔が競い起こることは、よく知っていた。事実、多くの会員が、信心を反対され、悪口を言われてきた。しかし、幹部として皆を指導していた者が、不正な問題を起こし、しかも、学会を非難するという事態に直面したのは初めてであった。


動揺した会員も少なくなかった。学会本部から派遣された幹部が、指導、激励にあたった時にも、しばしば、こんな質問がでた。


「信心が強盛で、立派な人だから、幹部になったんでしょう。それが、どうしてこんな問題を起こすのですか。誰を信じて信心をしていけばいいのですか」


そう考えるのも無理からぬことであるが、御聖訓に照らしてみれば、不思議なことは何もなかった。御書には、この世界は第六天の魔王の所領であり、魔王は、広宣流布が進み、仏の軍勢にその領土を奪われることを恐れて、ありとあらゆる手を尽くし、法華経の行者を迫害することが述べられている。沼山夫婦の問題も、その一つの現れである。


「三沢抄」には、第六天の魔王が、法華経の行者を悩ませるために、自分の眷属に次のように命令したと仰せである。


【彼が弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或いはをどしてみよ】(御書全P1488)


つまり、弟子檀那の心の中に入って、仏子を惑わし、広宣流布の前進をとどめさせよというのである。それは、人びとの意表を突き、不信をいだかせるのに、極めて効果のある、魔の現れ方といえよう。


ゆえに、広宣流布が魔軍と仏の軍との戦いである限り、魔は、幹部の不祥事、退転、反逆というかたちとなって、永遠に現れ続けるに違いない。


だが、何も恐れるには足りない。魔は魔であると見破った時に、打ち破ることができるからである。要は、現象に惑わされるのではなく、‘’信心の眼‘’を開き、御書に立ち返ることだ。
一見、複雑そうに見える問題も、‘’信心の眼‘’で見るならば、すべては明瞭である。


派遣幹部は、必死になって魔の狙いは、信心の心を失わせることにあると、力説していった。           
                        (新・人間革命8巻 清流の章より)