極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

何故 日顕(日顕宗)を責めるのか

「ちょっと言いすぎじゃないか」とか「イヤだ」だとか思う人がいるんですね。(中略)「仏法は慈悲なのに、なんであそこまで言うんだ」という質問が出ることがあります。「人の悪口を言うのもイヤだし、聞くのもイヤだ」と思う人もいるんですね。



しかし、大聖人は「力あらむほどは謗法をば責めさせたもうべし」と仰せです。「呵責し駈遣し挙処」の「挙処」っていうのは、相手の罪をあげつらうんですね。日顕がどこで芸者遊びをして、どこで問題を起こしたかなどを具体的にあげないと真実がわからないんです。ですから、あれを(日顕や山友の記事)を読んでイヤだと思う人もいるかもしれませんけれど、
えげつないと思うかもしれませんけれども、あれは別に聖教新聞の編集者が、えげつないのではなくて、日顕がえげつないんです。


そのへんをどうかご理解願えればと思うんですね。で、我々が気をつけなければならないのは、中途半端な慈悲心です。学会員は人がいいですから、慈悲心が出てしまう。人間のこの慈悲心につけこんで、その心に入り、哀れみの情を募らせて善悪の判断を狂わせる働きを、仏法では『慈悲魔』といいます。



『慈悲魔』・・・「少乗大乗分別抄」(御書全集P526)という御書にも出てきますがもともと学会員の方々は、人がよく慈悲深い人が多いので、魔がそこにつけこんで「もうそんなに日顕や山友の悪口を言わなくてもいいではないか」と思わせて悪を見逃せる。日顕やそういう悪の輩が責められているのを見て「やりすぎなんじゃないか」「ちょっとかわいそうなんじゃないか」と思うところは小さな善、つまり小善でしかない。


池田先生は、「塵も積もれば山となると言うことわざもあるけれど、塵が積もって出来た山はないんだ。どうすれば山ができるのか。それは地殻変動によっていっきにできる。(あ~かわいそう、やりすぎだっていう)小善をどんなに積み重ねても大善にはならない。では、どうすれば大善に至れるか。大悪と戦ってこそ、大善に至る」と。


             (2011年青年僧侶改革同盟 成田雄伴氏投稿より一部抜粋)