極悪と戦えば極善となる

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リーダーの要件

いよいよ下半期、新たな立場でスタートを切ることに。
自己を律していくため初心、原点にかえろうと思い、新人間革命29巻を熟読した。


「幹部は、皆に信心の養分を送り続けていく存在であり、そのためには、自らが信心強盛な先輩を求めて切磋琢磨し、常に成長を続けていくことが大事です。そうするなかで充実感も、希望も湧き、大きな生きがいも感じていくことができる。


なかには、一応は先輩幹部であっても、広宣流布への使命感も、情熱も乏しく、ともすれば組織の批判ばかりする人がいます。もし、そうした人たちと同調して、不平や不満を述べていると、自分も清新な信心の息吹を失い、堕落してしまう。残念なことに、これまでそういう事例を、幾つも見てきました。


次に、幹部の反社会的な行為や組織利用は絶対に許されないということを、深く心にとどめていただきたい。幹部に、そうした行為があれば、大勢の学会員を苦しめ、広宣流布の大きな遅れにもつながってしまう。


仮に、そういう幹部と親しい関係にあっても、決して擁護する必要はありません。
学会は、悪は悪であると鋭く見抜き、的確に対処できる健全な組織でなければならない。」


仏法の説く生命の因果の法則は、人間の規範、モラルの根本となるものである。
不正、悪事を行い、人の目をごまかすことはできても、仏法の因果の理法を逃れることはできない。どんな小さな悪事も、また、善事も、すべては報いとなって自分自身に返ってくる。


日蓮大聖人は「悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず」御書P768
と仰せである。この法則を、生き方の基としているのが仏法者である。


                      (「力走」の章より)


敵をも味方に変えれる信心

「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」御書P916


ー(大聖人を流罪にした)相模守(北条時宗)こそ善知識であり、平左衛門尉こそ、
""悪知識即善知識""であった提婆達多であるー



かつて職場の同僚に悪さばかりする「嫌なやつ」がいて先輩に指導を受けたところ


「その人にも仏界があるのだから恨んではいけない」


と言われ、それ以降、相手の成長を祈るように。


さんざん苦しめられ、悩まされたが、
お題目をあげさせてくれて、自分の生命を鍛え、
強くさせてくれるという視点でみたときは、自分に害を与えてくる人は最高の
善知識になるのだろう。



あることがきっかけとなり、勇気を出してその同僚の行為を破折していった。普段温厚な私が、強い口調で自分を諫めてきたことに驚いたようで、それからは""悪さ""をしなくなった。数年後、その人は私の強力な味方<諸天善神>へと変わり、なにかと助けてくれるようになっていった。



「相手の悪い心を折って、正法に伏せしむ」
というのが、折伏の本来の意味だが、勇気を出して破折していってよかったと思う。



「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」御書P762



折伏を行じていくことこそ、自分の悪い心も相手の悪い心も滅していくことができ、
善を生じさせることが出来る。



「善悪不二とは、悪をそのまま認めることではない。悪と断じて戦い、打ち破って、悪をも善の味方にしていくことです。仏法は勝負だ。負けたのでは、善悪不二ではなく、善が悪の奴隷となってしまう。断じて勝ってこそ、悪知識も善知識にしていけるのです」


               法華経の智慧 悪人成仏ー善の勝利の偉大なる証明より

謗法を責め抜くことこそ成仏の直道

聖愚問答抄P496


「其の仏法の偉目を見ながら我もせめず国主にも訴へずは教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり」


謗法の者を見ながら自分も責めず、国主にも訴えようとしない者は仏弟子にはあらずと経文には説かれている。



涅槃経に云く


「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駆遣し拳処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し拳処せば是れ我が弟子真の声聞なり」


もし仏法者がいて、法を破る者をみていて、それを放置し、責めようとせず、追放もせず、はっきり罪をあげて処断しないのであれば、この人は仏法の中の敵である。よく責め、追放し、罪を指摘して処断してこそ真の仏弟子である。



この涅槃経の「若し善比丘あつて・・・」の文は御書のいたるところで見られる。



「されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪(にく)まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす、汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ」



大聖人は仏法の中の怨、「仏法中怨」の責めを免れるために、たとえ人々に憎まれようとも謗法を責めていかれたと仰せられている。



謗法を責め抜いていくことは、成仏の直道なのである。



「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
曽谷殿御返事P1056