極悪と戦えば極善となる

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悪には対しては根に持っていかなければならない

広宣流布においては、日蓮大聖人を裏切り、同志を裏切った悪人を、徹底的に追及しなければならない。日本的な「水に流す」とか「みそぎ」とかいう慣習は、一見、寛容のようであって、じつは「悪への怒りがなく、けじめがない」だけである。「もう、この辺でいいだろう」は精神の敗北である。


日蓮大聖人も、日興上人も、どんな小さな悪も許されなかった。
仏法は、「人情論」ではない。「正義の大闘争」である。


日興上人も、「五老僧」とその一味を、最後まで許しておられない。
「五人所破抄」を弟子に書かせたのは、身延離山から数えて、なんと四十年後である。
ご入滅の直前の「日興遺誡置文」でも、厳しく「五老僧たちの立てた宗義は、ひとつひとつ、すべて師匠である日蓮大聖人のご化導と違っている」と破折しておられる。


最後の最後まで、追撃の手をゆるめておられない。


           (輝きの人間世紀へ 御書とその心より一部抜粋)

化法についてⅣ

しかし、我々凡夫の己心に仏界が具わっているといっても、それを湧現していく「縁」が必要になります。大聖人は以下のように仰せです。


機根には二種類あり、


・仏に直接会って法華経で得道する者
・仏に直接会わなくても法華経によって得道する者


また、過去の下種によって、法華経以外の浅い教えでも、それを「縁」として「正見」に入る者もいると仰られています(教外の得道)。


仏教以外の信仰をしている人でも、


「神は、遠くにいるのではない。神は自分の中にいる」


と「内道」の生き方ができる人は、これにあたるのでしょう。



余談になりますが、キリスト教徒であるローレンス・エドワード・カーター牧師は、


『Baptist Preacher's Buddhist  Teacher』
【バプテスト(プロテスタントの教派)牧師の仏教の師匠】


という著作の中で、‘’私は池田先生を手本として、人間革命した‘’と述べられています。




化法についてⅢ

法華経方便品の文「欲令衆生開仏知見」、衆生の中にある仏の智慧を開かせたいということこそ、大聖人の願いであったと思います。そのために衆生の仏界の生命を移す「明鏡」として御本尊をあらわされた。


化法とは、内なる生命の実相を示した真理で、それを外にあらわされたのが御本尊であり、「観心の本尊」=己心(自分の心の中)の一念三千、仏性を観じるための外の本尊(明鏡)なので、【十界互具・一念三千】という【内なる法】が前面に出ることになります。


その理由は、


「妙法蓮華経を唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(御書P383)


「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外に有りとは・ゆめゆめ思ふべからず」(同)


大御本尊を拝んでいても、また、たとえ創価学会員で日寛上人の御本尊に唱題していても「自分の心以外に法を求めて」、おすがり信心をしているとしたら、それは麤法(劣悪な法)であり、間違った崇め方をしているということになります。


観心本尊抄で前半、本尊の話をせず、まず一念三千・十界互具の文証をあげられ、


「あなたの心の中に仏界がある」


と繰り返し述べられているのは、【仏とは凡夫と隔絶した特別な存在ではなく、衆生自身が本来、仏である】いうことを気づかせたかったからだと思います。十界互具の法理は、『本尊⇒拝んだら(外の対象から)功徳がもらえる、といったような‘’偉大な神仏という、自分の外に絶対的な対象をおいて、それにおすがりして拝んだら(絶対的な外の対象から)功徳がもらえる』、という、従来の宗教観を覆すものであるので、「我々のような劣った凡夫の生命に、偉大な仏の生命が具わっているなどというのは、到底考えられない」(御書P241)と質問者は不信の言葉を述べています。