極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

人を恨むのは苦しい

 怒ったり、他人を恨むのは、もの凄くエネルギーがいる。


  私は、普段は温厚なほうだと思うが、カァーっとなると自己破壊的な生命がでてきて、 「それ、言ったらダメでしょ」的なことをつい相手に言ってしまい、相手も傷つけ、自分も傷ついて、せっかく築き上げてきた信頼関係が壊れ、後で自己嫌悪に陥るということを以前は繰り返していた。



 人間は、感情に溺れると理性で自分を抑えれなくなる。
相手が憎い!と思ったら、自分を正当化して理屈をつけてとことん相手を攻撃してしまう。しかし、その結果、もっと苦しむのは自分自身なのだが。



 人を恨んでいるときは、とても苦しい。
 とても幸せだとはいえない。
 だから、そういう人を見かけたときは、祈ってほしい。



【その人が生命を変えて、成長しますように】と。


 

何も言われないのは、何もしていないから

""非難されているかどうか""が問題なのではない。
よきにつけ悪しきにつけ、動けば風は起こる。
何も言われないのは、何もしていないからである。


問題は""誰に非難されているか""である。
善人は悪人に非難され、悪人は善人に非難される。
この本質をきちっと見ていくことである。


日蓮大聖人は、ご自身のことを、こう言われている。
「いまだかつて法華経のために、三類の強敵に怨まれた者はいない」と。


そして厳然と宣言しておられる。
「愚人にほめられることが第一の恥である」


牧口先生も、戸田先生も、つねに、この御文を拝しておられた。
""大聖人がご照覧くだされば、それでいいのだ""と。


大聖人にほめられるかどうかー
ここに、信心の唯一にして絶対の基準がある。
この一点に心を定めれば、人生は晴れわたる大空のごとく、
何の迷いもないはずである。


    輝きの人間世紀へ 御書とその心 難・迫害より一部抜粋

一家の宿業を背負った私の弟

 最近は、邪宗のことは他宗といい、その害毒が学会員同士で語られることはあまりなくなってきた。しかし、自分自身の宿命を見直すため、あえてそのことを記事にしてみようと思う。


 私の実家は、もともと真言宗であるが、その害毒といえば、一家の柱が立たない、男性が病弱であったり早世する、リウマチなどの手足の病、血液、骨の病。また、生命が傲慢、裏で暗躍したり、自己を正当化する。頭破作七分的言動。


 我が家の真言の宿業を背負ったのは、私の弟だった。本人のプライバシーのため、一部事実を変えた表現をしていくことをご了承願いたい。


 弟は子供のころは可愛くて明るく、学校ではクラスの人気者だった。
その弟が変わりだしたのは、喘息を患い入退院を繰り返すようになってからだ。
身の病をきっかけに心の病も発症してしまったのか、たびたび嘘をつくようになり、両親や周囲を振り回して困らせるような行動をした。


 しかし、本人は自分がやったことを全く覚えていないという。


「姉ちゃん。ボクはやってない。」


と泣いてうったえてきた。私は弟のいうことを信じた。
しかし、後に弟の嘘が発覚し、裏切られたような、虚しいようななんとも言えない気持ちになった。同じことを何度も繰り返す弟に苛立ちを覚え、


「あんたのせいで、○○家はメチャクチャよ」


とつい責めてしまったこともあった。


その後、弟のことで指導をうける機会があった。その幹部の方は御書を開き、



【若し己心の他に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり】一生成仏抄P383


の御文を引かれ、こう言われた。


「弟さんは、あなたに信心を教えるために、一家の宿命を背負って、したくもないことをして、苦しんでいるんですよ。だから絶対に恨んではいけない。」


"" そうか・・弟の宿業じゃない、我が家の、そして自分自身の宿業だったんだ。""


私は自分の浅はかさを反省し、それ以来、弟のことを責めるのをやめた。
唱題を重ねていくと、弟に対する感謝の気持ちがでてきた。
(おかげで、お題目がよくあがるわ。ありがとう)


時間はかかったが、薄紙をはぐように弟は変わってきた。
今では、嫁いだ私の代わりに、両親の面倒をよくみてくれている。


身を呈して信心を教えてくれた弟には感謝である。