極悪と戦えば極善となる

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宗門改め方を諫めて入獄した信徒 中村小兵尉

寛政三年(1786年)七月、信徒の代表とみられた中村小兵尉(足軽小頭)など七人が、大石寺派を信仰している件について役所に呼び出され、取り調べを受けています。そのころには、藩内の各方面で信仰する者は、一万二千人もいたといわれ、宗門改め方としても、放ってはおけなくなったためでしょう。


取り調べに対する答弁は、中村小兵尉一人が引き受けています。
一人でも多くの信徒の名を自白するように責められましたが、


「国政を重んじて口外しないことにしているので、だれが信仰しているかというとはわからず、申しあげがたいことです」


と答え、自分の入信のいきさつから、信仰の意義などを堂々と話し、武士としての奉公を公正に努めるため、求道の一念からの正法信仰である、と主張しています。


その後、中村小兵尉は数回の呼び出しがありましたが屈せず、逆に「大石寺派の信仰は、当今、時期相応の正法」であり、「本尊を捨てて正法が国に滅びては、お家のためにならない」などと記した上申書を提出し、宗門改め方を諫めています。


そして、九月二十六日に投獄されましたが、十二月二十三日には許されて牢を出され、「お構いなし」と無罪になり、従来通りの職責にもどって職務に励んでいます。


金沢法難は、加賀・前田藩の下級藩士や町民など、民衆の間に民衆が弘教したことによって正法が広く弘まったことにより起きた法難で、投獄された者が五人(獄死者が一人)閉門にあった者が十四人で取り調べを受けて信仰を圧迫された者の数も多かったのです。
                  (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)