極悪と戦えば極善となる

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狸祭り事件Ⅲ

この不当な決議に怒った学会青年部は、宗会議員の一人一人に対して、徹底した説得を行い、決議の非を追及したため、しだいに情勢は変わっていきました。七月二十四日、日昇上人より戸田先生へ「誡告文」が出され、戸田先生より、


「宗内に於いてもあまりにも謗法に傾き過ぎたり大白法の信奉に惰弱なる者を見る時、況や宗外の邪宗徒をせめるときは宗開両祖の御金言に露ばかりも違わざる行動と信じます故に、御本尊の御前にして日蓮正宗の信者として恥じないと確信し大講頭職は辞しません」


等と述べた「御詫状」が提出されました。そこには、正義を主張して一歩も退かない決意がみなぎっています。その後、小笠原が戸田会長以下の学会幹部を告訴したため、警察の取り調べがありましたが、法主まで告訴したため、檀信徒の強い反発を受けて告訴を取り下げています。しかし、これだけ騒がせた小笠原に対して、宗門はなんの処分もしませんでした。


この問題は、宗門の僧侶が、大聖人の仏法の正義を根幹に行動するのではなく、僧の権威を守るためと信徒を下に見る行動によってのみ行動するという醜い本質を浮かびあがらせています。また、僧侶が小笠原の追及に拒否反応を示した理由は、「同じ穴のムジナ」として戦時中の謗法への加担の追及が宗門全体にまで波及し、わが身の謗法与同を責められることへの保身のためでもあったのです。 (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より抜粋)



以下、戸田先生が坊主の本質をえぐっている聖教新聞での「寸鉄」



【神本仏迹なんて言う坊主は化物(ばけもの)坊主である】
                      (昭和二十六年六月十日)


【化物坊主と寸鉄居士の大喝でおこった坊主があるげな。寸鉄居士その坊主を呼んでいわく「第六天坊主」と】                  (昭和二十六年七月一日)



【寸鉄居士よ御僧侶を坊主などと呼ぶと地獄に堕ちるぞ!寸鉄居士答えていわく「御僧侶を坊主といった覚えなく坊主を僧侶と呼んだ覚えはない」。】


【坊主が御僧侶の衣をつけたのと御僧侶が坊主の姿に見えるのとは皆信心のはかりではかるんだよ】                       (昭和二十六年八月二十日)




【宗会の決議では我等が会長が登山止めになったそうだな。物騒な世の中になったもんだ】


【忠義を尽くして謗法を責めて御褒美あるかと思ったに、おほめはなくて、「登山まかりならん」とおしかりさ、弟子共一同「俺達も一緒に登らんわい、フン」だってさ】


【何が「フン」だい。決まってるじゃないか。日本全国の信者の声だってさ、嘘も良い加減にしろ、折伏も出来ず、御衣の権威で偉ばること計りを知っとる坊主の学会に対するやきもちだからさ】


【寸鉄居士会長先生に御伺いをたてたら「あんまり騒ぐなよ、こんな目出度いことを」とニヤリさ】


【寸鉄居士ニヤリとして日く宗会議員の諸公は三類の敵人中、第二類か第三類かニヤリ】
                              (昭和二十七年七月十日)


寸鉄居士・・戸田先生のこと

小さな奇跡



アイノカタチ アナ・ヴィージャ


早いもので母が亡くなってから早四年。
遠方に嫁いだので死に目には会えなかったが、池田先生と同志のお題目で、臨終の時まったく苦しまず眠るように亡くなったと父から聞いた。


私は実家にいたころ、母がものすごく苦手だった。気が強く悪気はないのだが、ズケズケとモノを言うので、キツイなー、早く実家を出たいと思っていた。


でも今から思うと、そんな気が強い母だったからこそ、難病にも負けなかったんだと思う。
病気になってからも、弱音ひとつはいたことはなかった。私にも「病気になったからといってもな、何にも怖いことなんか、ありゃあせんよ」とよく言っていた。


キツイ性格だけれども、それと同じくらい愛情も深い母だった。


余命あと一か月と聞いた後、ショックでお題目をあげようとしても最初は声にならなかったが、たくさんの同志の皆様の励ましのおかげで、「亡くなるまで悔いの残らないように最高の親孝行をしよう」と決意できた。


母の成仏をかけて10時間唱題を三回し、
亡くなったその日まで選挙活動や新聞啓蒙に挑戦。
最高の親孝行ができたと思っている。


やれるだけのことはやったので、後悔はない。
ただ時折、ふと寂しくなることもある。


そんな心を癒してくれているのが、近所のキジトラ猫ちゃんだ。


不思議な猫で、学会活動に頑張った日は、必ず我が家に来て、まるでそっと寄り添うように
一緒にいてくれる。この子に会えたのは「小さな奇跡」のように思う。


今、折伏中の親友にこう言われた。


「お母さんに変わって、ずっとそばにいてくれるのかもね」


狸祭り事件Ⅱ

ところが、宗門はこの学会の行動に対して強い拒否反応を示し、大法要中に騒ぎを起こしたことと、信徒の立場で「僧」を問いただすのは、法主の権威をふみにじったものであり、法衣を着た法主の法類を信徒がいじめたものだと問題にし、「宗門の全僧侶に対する侮辱である」という学会に対する批判決議をする宗務院まででたのです。


正法と宗門を破壊しようとした小笠原の責任は全く問われず、一方的に学会の行動のみが批判されたのは、信徒の分際で僧の誤りを追及するとはけしからん、という信徒を蔑視して下に見る僧侶の権威的な感情論の現れだったのです。


しかも、宗門は大法要の直前の四月五日付けで、小笠原を僧籍に復帰させる特赦を行った、という辞令を五月中旬に配布された機関紙「大日蓮」に掲載していました。僧籍にあるものを学会が追及したとして、僧の権威を守るためにあわてて取り繕ったことは明らかです。


実際には終戦直後の昭和二十一年三月に、小笠原の僧籍復帰は許されていました。それにもかかわらず、学会の追及に対して、小笠原が僧籍にないことを、宗門側はそれまでに度々、
公式に表明していたのですから卑劣です。


六月二十八日の日蓮正宗の宗会では「大法衣不祥事事件」としてこの問題が審議され、戸田先生に対して「所属寺院住職を経て謝罪文を提出すること、大講頭を罷免す、戸田城聖氏の登山を停止す」という処分を望む一方的なものだったのです。
               (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より抜粋)


この時の日蓮正宗に対して、戸田先生は「寸鉄」で『平左衛門尉の後身か』と以下のように鋭い破折をくわえている。


【無調査の論告 野蛮時代の政治よりもなお悪い、さては宗会議員諸公七百年前を想い出したな】


【七百年前を思い出してもよい 大聖人の折伏姿ならよいが平左衛門の真似ぢゃ困ったもんだ】


【宗会議員諸公は平左衛門の後身か 事情も調べず義理もたださず論告するとは】


【平左衛門の後身 宗会議員諸公とあらわる 仏恩広大にして、逆縁の輩、今大聖人の仏法の中に生まれて 唯一人の大信者をそねみ恨む、終生恐るべし】


               (昭和二十七年七月二十日付 聖教新聞 寸鉄)