法華経の敵を責めよとは大聖人の厳命
【信心ふかき者も、法華経のかたき(敵)をばせ(責)めず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部読み書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたき(敵)をだにもせ(責)めざれば得道ありがたし】(御書全P1494 新・P1826)
(信心が深い者であっても、どんなに大善をつくり、法華経を千万部読み、書写し、一念三千の観心の道を得た人であっても、法華経の敵を責めなければ成仏はできない)
【たとえば、朝につかうる人の、十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏もせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて、還ってとがに行われんがごとし】(同)
(例えば朝廷に仕える人が、十年、二十年と奉公しても、主君の敵を知りながら報告もせず、個人としてもその敵を憎み、責めなければ、長年の奉公の功績もみな消えてしまい、かえって罪に問われるようなものである)
法華経の敵と戦わない者は、成仏できないとの大聖人の厳しい仰せである。
【日々、仏道修行に励み、多くの善根を積んでいるという人がいる。また教学の研鑽に励み、仏法のことは深く知っているという人もいるかもしれない。しかし、いくら善根を積み、仏法を深く極めているといっても、正法正義を破壊する敵と戦わなければ、すべて無意味なものとなる。成仏は絶対にできない、との厳しき仰せなのである】
1989年10月1日 池田先生の御指導より
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