極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

自己の才智におぼれた提婆達多

提婆達多は、「八万宝蔵を胸に浮べ」(全P1348)と御書にあるように、仏の膨大な教えをそらんじれるほど、かなりの秀才だったようだ。しかし、その才智ゆえ慢心が出たのだろう。大聖人や日興上人の時代の三位房、五老僧の一人、日向も才子肌であったようだが、自己の才智におぼれ、「慢心」で信心が狂ってしまった。


【汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし】
                     (持妙法華問答抄 御書全 P463)




【名誉会長: 提婆達多は、釈尊が皆から尊敬される姿だけを見て、釈尊の「内なる戦い」を見ようとしなかった。苦悩の人々を救うため、全人類に自分自身の生命の宝を気づかせるために、釈尊が日夜、人知れずどれほど苦心していたか。どれほど自分自身と戦い、苦労に苦労を重ねていたか。その苦闘を彼は見ようとはしなかったのです。


なぜ見えなかったか。それは彼自身が自分との戦いをやめてしまっていたからでしょう。
「内なる悪」を自覚し、その克服に努力しなければ、とたんに悪に染まってしまう。その意味で、「善人」とは、悪と戦っている人です。外の悪と戦うことによって、自分の内なる悪を浄化しようとしている人のことです。この軌道が人間革命の軌道です。


斉藤教学部長:内なる悪を自覚するーということは「一念三千」ですね、極善の仏にも、提婆達多の極悪の生命がある、というのが、十界互具であり、一念三千ですから】


                       (法華経の智慧第3巻より一部抜粋)