極悪と戦えば極善となる

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青年よ 困難に挑みゆけ


《吹奏楽行進曲》アフリカン・シンフォニー(行進曲ヴァージョン)


以下、第26回本部幹部会の席上(2017年7月8日)、上映された池田先生のスピーチ


また、戸田先生は言われた。
「広宣流布は、思想戦であり、言論戦だ。書きに書かねばならないし、しゃべりにしゃべりまくらなくてはならない作業であり、大運動なのだ」と。


どんどん書け。しゃべりにしゃべれ。
黙っていてはいけない。言うべきことは、強く言い切っていけ。
それでこそ、広宣流布は進むのだ、との戸田先生の厳命である。


もちろん、聞くべきときは、きちんと聞かなければならない。
そのうえで、青年ならば、邪悪を許さぬ、鋭い言論の力を持つべきだ。


「一」言われたら「十」言い返し、打ち返す「反撃力」を磨き抜いていくのである。
いわれない非難を受けて、黙って下を向いているような意気地なしの青年であってはいけない。おとなしくて、かしこまっていては損をするだけである。


相手の生命に叩き込むくらいの執念と勢いで、これでもか、これでもかと反論することだ。真実を語ることだ。沈黙しないことだ。生命力に満ち満ちた力強い「声」ーそれが、""広宣流布の弾丸""である。偏見や無理解の壁を破る""正義の大砲""である。

自分の一凶と戦う

私の母方の家系の宗教は、念仏宗、真言宗(正式には天台真言)。
父方の家系は身延日蓮宗、神道(黒住教)。
もう「宿業の問屋」のような実家だった。


特に""恐ろしい害毒""と感じたのは、念仏宗と真言宗。
「念仏無間」と喝破されている通り、絶えず生命が「苦しみ」を感じ、現実から逃げたい、逃げたいという思いにかられていた。真言宗の「柱を倒そうとする忘恩」、傲慢、人を見くだす生命。忘恩、傲慢の故に、築き上げてきた人間関係を感情に溺れ、自ら破壊してしまう。


私はこれら自分の「一凶」を本気で断ち切ろうと決意し、ノートに書き込んだ。


念仏の害毒  生命力が弱い、優柔不断、現実逃避
       根性がない、すぐに放り出す
       人はいいけど騙されやすい
       同じ過ちを繰り返し、それを本気で変えていこうと決意しない
       他力本願
       プライドだけは高い
       愚痴が多い、怨嫉する
       不信の生命が強い
       ご本尊の前に座ろうとしない、
       会合にいく前や唱題をし始めると強烈な眠気に襲われる(捨閉閣抛の生命)


真言の害毒  生命が傲慢
       感情に溺れ人間関係を壊してしまう
       人を見下す
       自己正当化


これらの自分の一凶を必ずたたっ斬る!と決め、祈り、戦った。
これら、「自分の中の悪の生命」は、謗法を呵責していったときにスパっと切れた。


「折伏行には、自他の無明を打ち破っていく力があるからです・・中略 勇気をもって戦った分だけ功徳があり、人間革命できるのです。」(御書の世界 第三巻P39)


折伏(破折)をしていくことで、相手の悪い心を折るだけでなく、自分自身の一凶(自分の成長を妨げる愚痴、不信、怨嫉、臆病などの悪い生命)を切っていける。


「勇気をもって自他の悪と戦っていくところにのみ、妙法の善なる力が現れてくる。勇気ある戦いがなければ、偉大な功徳はありません。」(同P40)


慈悲魔 誤れる仏ごころ

慈悲魔(じひま)とは、人間の慈悲心、人情につけいる『魔』。
慈悲魔にたぼらかされると、『かわいそう』という心が邪魔をして相手のためにも自分のためにもならないことをしてしまい、悪を放置させてしまう。人がいい学会員さんは""要注意""の魔だ。


首楞厳経(しゅりょうごんきょう)に説かれるこの魔、『衆生の心に一分の慈悲心』があるのに乗じて、その心に取り入る。あわれみの情をいたずらに募らせ、是非善悪の判断を狂わせる。


お人よしだった私は、過去に何度もこの魔にたぼらかされ、""あわれみの情をいたずらに募らせ、是非善悪の判断""を狂わせてきた。慈悲魔というのは仏教用語であるが、広く世間一般にも通じる。


その一例 ・子供に泣かれてついついお菓子ばかり変え与えてしまう
     ・友達が悪いことをしていても注意しない
     ・彼氏にお金をせがまれ貢いでしまい、甘やかして相手に働く意欲をなくさせ
      てしまう
     ・自分が詐欺の被害にあっているのに、詐欺師に惚れ込み「責めるのはかわい      そうだから」とその罪を放置しておく


まさに、『自分のためにも相手のためにもならない』慈悲、人情。


『創価学会は、もともと日蓮正宗で教学を教えてもらったのに、その恩を忘れている』
との宗門側の意見があるが、「恩があるからこそ」、正法破壊の大謗法を戒めていったのである。


悪いことは、悪い!と言い切っていくことが本当の慈悲である。
以下、新人間革命第3巻 「月氏」の章より引用、抜粋。


『寛容というのは、誤った教えや悪を放置することではない。万人を幸福にしようとする慈愛の広さ、深さを意味する。それゆえに、人ひとを不幸にする悪に対しては、敢然と戦うんです。ましてや、大善を破壊する大悪、つまり「悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)」の魔の働きをするものとは、徹底して戦わなくてはならない。それをしないのは、寛容などではなく、宗教者の仮面を被った、保身と妥協の偽善者にすぎない。』(p136)


『戸田先生も、悪に対しては厳格であり、徹底して戦われたが、人間的には本当に寛容でした。私は、戸田先生が笠原慈行(かさはらじこう)を助けられた時に、その広大な慈悲に驚いたものです。』(p140)


笠原慈行(小笠原慈聞)とは、戦時中、「神本仏迹論(しんぼんぶっしゃくろん)」という邪義を唱え戦時中、天照大神こそ本地で、釈迦如来は垂迹であるとし、天照大神は南無妙法蓮華経を世法的に日本に具現した至尊であるとし、そのことを哲学的に説いた仏が大聖人とする邪義を唱え、当時の神国思想に便乗し軍部政府に迎合していった日蓮正宗の悪僧である。


この笠原慈行こと小笠原慈聞(おがさわらじもん)は、大石寺を不敬罪で告訴するなど宗内をかく乱し、暗躍を重ね、これによって牧口会長、戸田理事長(当時)など学会の幹部が一斉検挙されることになる。戦後、僧籍をはく奪されたはずの小笠原慈聞が総本山にいることを知った学会の青年部は、「神本仏迹論」が邪義であることを認め、牧口会長の墓前で謝罪するように迫った。(狸祭り事件)彼は、ひとたび罪を認め、謝罪状を書いたが、すぐにそれを翻し、謝罪は暴行、脅迫によるものであると事実を歪曲、戸田会長を告訴し、それによって戸田会長は静岡の吉原署に留置される。


『戦後になって、再び笠原によって宗門が攪乱されたのは、もともと宗門のあいまいな対応のためである。悪の根を断とうとせず、中途半端に容認してきたところに、その要因があった。徹底した戦いなくては、邪悪を粉砕することはできない。戸田城聖は、決して笠原の邪義を許さなかった。それをあいまいにしておけば、永遠に禍根を残すことになると判断したからである。』(p142)


徹底的な追及にあい、小笠原はその後、心から自分の非を認め、詫びた。そして、
""自らの誤った生き方を目覚めさせてくれたのは学会であり、あの果敢な弘教がなければ宗門は衰微してしまっていただろう""と戸田会長を称えた。後に小笠原が離職金融詐欺にあい、生活も窮地に陥ったとき、戸田会長は彼に見舞金をおくり、男子部の有志が金を出し合って彼に支援金を届けた。


『慈悲を口にすることは容易てある。しかし、憎んでも憎み足りない相手に、慈悲を施すことは至難であろう。だが、戸田は、仏法の大慈大悲をもって、笠原をも寛容の腕で温かく包んだのである。』(p143)