極悪と戦えば極善となる

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悪に対する反撃精神をもて


牧口先生も「悪人は多くの善人の生活を脅かす」と記された。
悪人は善人の生活を妬み、悪口雑言する。そして、善人があたかも悪人であるかのように巧妙にしたてあげる。牧口先生は、そうした悪人と戦われた。そして、戸田先生は、先師・牧口先生の正義の仇討ちのために立ち上がった。


私は、戸田先生の正義の仇討ちのために戦い続けている。
これが『師弟不二』の歴史である。戸田先生は常々、おっしゃっていた。


『裏切り者、不知恩の者と戦うのが、仏法の慈悲だ。わが学会は、宇宙最極の和楽の世界である。決して、魔に崩されてはならない。厳然と、わが崇高なる学会に、一人たりとも魔を寄せつけるな!』


だれよりも学会員の方々にお世話になりながら、自己の欲望や名利のために学会員を利用する『不知恩の輩』は断じて許してはならない。そうした恩知らずと戦う心を忘れてしまえば、的を外した戦いになってしまう。それでは結局、善を守りきることができない。


              (第44回本部幹部会 東京総会での池田先生のスピーチ)




あゝ新撰組  三橋美智也

広布破壊の極悪人 山崎正友②

苦水重徳(くみず しげのり)氏 (元公明党 岡山市議会議員) の証言


(山崎が司法修生時代のエピソード)


当時、苦水は男子部の中心者で、
京都から帰ったばかりという正友を印象深く記憶している。
「彼は学生部の班長として帰ってきましてね。よれよれの背広を着ていたと思います。いかにも病気あがりの顔で痩せていました。」


「彼は最初のころは皆の前で話すときもブルブル震えていたんです。うちの男子部はあれで本当に京大生なんかと言っていたくらいです。」


いまとなっては「あんな大悪党とは夢にも思わなかった」という苦水だが、「少なくとも僕の目の前では"悪の尾っぽ" は全然出していない」と言う。


山崎正友は岡山時代、自動車免許を取得した。あるとき正友がいう。


「苦水さん、わしは悪運の強い男じゃ。自動車免許も一発で通ったよ」
「あんた、(裁判所勤務をいいことに) 警察とおしてとったんじゃねえか」
「そんなことしてねえよ」


苦水は、そんな冗談をいったことを覚えている。


「行動力はありました。割合折伏もしていましたよ。当時、岡大の医学部に沖縄出身の学生がいたのですが、彼がよく面倒みていました。結果は実らなかったですがね。」


苦水は山崎正友と活動を共にしたものの、一緒に唱題した記憶はないという。


「熱心に拝んどった姿がどうしても彷彿としてこないんです。見たことがねえ。」


岡山時代に一緒に活動した人たちに共通していることは、山崎正友と共に信仰の基本とされている勤行や唱題を熱心におこなったと証言する人がいないことだ。
             (サイコパスの犯罪元弁護士山崎正友の心の闇 中田光彦著)


以上のエピソードからも、山崎が仏道修行の基本中の基本である勤行、唱題がきちんとできていなかったことが伺える。幹部であっても、教学があっても、信仰の根本である勤行、唱題がきちんとできていない人は全く信用できない。いくら立派そうな理屈を並べ立てても、心に響かないのである。


彼は、京大のエリート出身である。しかし、そのため慢心していたのだろう。
自分を謙虚にみつめることをしなかった彼は、いとも簡単に『第六天の魔王』の生命に支配され、自己の醜い欲望のために、他人を平気で食い物にするようになるのである。

広布破壊の極悪人 山崎正友

7月27日、28日付けの聖教新聞 新人間革命 雄飛の章 三十七、三十八に山崎正友(小説名は山脇友政)のことが載っていたので、ここで触れていきたいと思う。


もう故人であるので、知らない人もいるかもしれないが、この山崎正友、元創価学会の顧問弁護士という立場にありながら、その法的知識を悪用し、非道の限りを尽くした。


彼は、昭和11年11月、岡山市で出生。
昭和34年、京都大学法学部に現役入学をはたす。
27歳で弁護士となり、当初はまじめに働いていた。
しかし、学会の墓地建設をめぐる土地ころがしで四億五千万の黒い金を手にしてから彼の転落がはじまる。


弁護士法に違反して冷凍食品会社シーホースという会社をたちあげ、倒産すると顧問弁護士の立場を利用して学会本部の内部資料を持ち出しす。そして昭和五十五年四月、学会首脳に脅しをかけ三億円を恐喝、さらに五億円を要求し学会側に告訴され逮捕された。


創価学会と日蓮正宗が険悪になりはじめていた昭和52年ごろ、謀略をめぐらし、抗争をたきつけていたのは実はこの山崎だった。学会側と宗門側の間をいったりきたりマッチポンプの限りをつくし両者を混乱におとしいれていた。彼の狙いは、学会と宗門の間に入り、自分の影響力を強め池田会長(当時)を追い落とし、学会と宗門を自由に操ることにあった。


「信者がお経を読んだり、教学を勉強したりすることは、坊さんは本当は嫌なんだ。何も口うるさいことを言わないで、葬式、法事、御講で供養を出してくれる信者が一番いい信者だと思っているんだ。自分たちが信徒と同じお経をあげたんでは、ありがたみがなくて困るんだよ」


周囲にこんなことを漏らしていたにもかかわらず、山崎は坊主の前では平身低頭を装って見せ、心にもないお世辞で誑しこんでいった。細井日達が急逝し、山崎は法主に就任したばかりの阿部日顕にもすりよるが、目論見は失敗。「あんたは大ウソつきだ!」と罵倒された。


その後、山崎は学会恐喝容疑で逮捕、二年二か月の獄中生活をおくるが、自業自得にもかかわらず、学会に怨念を募らせ復讐心に燃えて出所してきた。まず手始めに創価学会を切っていた日顕に目をつけ、「人格高潔な方ほど、苦痛を味わわされるものです」「御法主上人猊下のご慈悲により、富士の清流がたもたれたことを、後世の僧俗方は、感謝されるでありましょう」などと甘言をもちいて再びすり寄っていった。


人間の欲望、弱みにつけ込む才に異様にたけていた彼は、宗門に限らず、政治家、マスコミ、他の宗教団体の教祖など次々と篭絡していった。信心の全くなかった彼は、仮にも日蓮正宗の信者でありながら、身延派の時局講演会で講師を務めるなど、考えられないようなことも平気でしている。


甘言をもって様々な人を篭絡していった彼だが、自らの欲望のため、それらの人間を利用するだけ利用して、そして利用価値がなくなると簡単に切り捨てていった。長年、山崎の盟友であったジャーナリストの内藤国夫(故人)は、「山崎にかつがれた、利用された」「もう俺の知人をどれほど騙して金とってるか。」「山崎とは、もう懲り懲りなんだから」と浜中和道(正信会僧侶)に電話で漏らしている。


こうして悪逆非道のかぎりをつくした山崎だったが、晩年は裁判で敗訴続き、腎臓病を患い、悲惨な末路を迎えた。
(参考文献 サイコパスの犯罪ー元弁護士山崎正友の心の闇 中田光彦著 )


山崎の出身地である岡山県は「真言王国」と言われているほど、真言宗が浸透している土地柄で、彼の家系も代々真言宗である。真言宗の生命の濁りといえば、釈迦の頭を踏んずけ柱を倒そうとする下克上気質、忘恩、傲慢、腹黒、策略家、彼は地道に仏道修行に励み人間革命しようと努力せず、自己の一凶と戦うことをしなかった故に、たやすく真言の害毒に染まっていったとしか思えない。


何を隠そう自分も彼と同じ出身地である。
彼が恩ある先生と学会に弓をひいてからというもの、彼の悪事を嫌というほどきかされてきた。しかし、彼の家族、親戚等、誰一人として彼に同調し退転していった人はいない。
彼の親族の一人は、勇気をだして会合で彼の悪事を徹底的に暴いていた。たとえ身内、親族といえども大恩ある師匠を裏切り、広布破壊をくわだてた者は許さない、との決意に私は感動した。


『不祥事を起こし、学会に迷惑をかけて、退転していった人間は、必ずといってよいほど、学会を逆恨みし、攻撃の牙をむくものである・・・略 また不祥事を起こした、脱落者、敗北者の ""負い目" "劣等感" を拭い去ろうとする心理の表れともいえる。そのためには、自己を正当化する以外にないからだ。そこで、学会や山本伸一を「巨悪」に仕立て上げ、自分を、その被害者、犠牲者として「悪」と戦う「正義」を演じようとするのである。この本末転倒の心の在り方を「悪鬼入其身」というのである。』
                     (新人間革命 第8巻 清流の章より)