極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅲ

その後、十月二十五日、十一月二日、十一月十日の三回にわたって、増右衛門、利蔵、右京の三人が、法華寺において、寺社奉行所の役人の監視のもとに、日蓮宗各派の役寺の高僧七人と対論しています。



寺社奉行としては、役寺(藩からの寺院に関する法令を伝達する役目の寺)に命じて三人を教化・改宗させようとしたものでしたが、利蔵を中心にした三人は、高僧たちの邪義を一つ一つ打ち破ったので、教化するはずの僧侶が、信徒側から誤りを指摘され、しばしば詰まって閉口したり、他の僧が信徒側の正義を認める珍妙なものになってしまいました。



大聖人から日興上人の二箇相承を認めさせ、身延の地頭・波木井実長の謗法を認めさせるなど、信徒側が大勝利したのです。これを「尾張問答」といいます。



堀日亨上人は、「問答は富士信徒の勝利にして役寺側の悲惨の敗北で能化所化(教化する側とされる側)全く位置を転道(逆転)したること三人は面目を公場に施し七寺は恥辱を不朽(永遠)に晒すのみならず富士信仰は少しも邪義にあらず却って日蓮宗中の正統正義なることを公吏(役人)に聞かしむるに帰した」(尾張法難史)と称賛しています。

信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅱ

天保八年(1837年)の秋に、再び迫害がおこっています。文政の法難で御本尊を取り上げられたことで警戒した信徒たちは、仏壇の正面には涙をのんで檀那寺からの仏像を並べ、その陰に御本尊を安置していました。ところが平松増右衛門は仏壇改めをされ、そのまま名古屋の寺社奉行に呼ばれ、長期にわたる取り調べを受けました。岩田利蔵、木全右京も同じ目にあっています。小牧方面でも次々と弾圧がおこり、翌九年の春まで断続的に続いています。



弘化の末年(1847年ごろ)から嘉永の終わり(1854年ごろ)までの八年間は、殆ど毎年のように弾圧が続いた、法難が最も激しい時期でした。嘉永元年(1848年)二月に、妙楽寺の智定院という僧が木全右京に邪義を破折されたことから、右京と息子の左京を呼んで、謝り証文を出すように脅し、右京が八幡宮の社人をしていたのを追い出そうとするなど、迫害が強まりま
した。


八月二十五日には、寺社奉行の命だといって、右京を本遠寺に呼びつけてそのまま拘禁し、
二十九日には、身延派の僧俗八十四人が右京を奉行所へ送り、利蔵、善之衛門らも連行しています。その取り調べは苛酷で、笞(むち)や杖で打たれ、利蔵は石三枚を抱かされるという拷問が加えられました。


また、ならず者を取り調べの場に連れ込んで、善之衛門を暴行し責めました。
九月九日に善之衛門は許されて村へ帰りましが、半死半生の病人になっていました。
右京と利蔵の二人は、首謀者と見られ、拷問が続き、拘留されたままでした。



増右衛門らが内願書をしたためて国家老を動かそうとした結果、同情した国家老が寺社奉行に注意したので、九月二十七日に右京が釈放され、十月四日には利蔵が村へ帰されました。
しかし二人とも、拷問のために身体の自由がきかず、駕籠に乗って帰る状態でした。
十月二十二、二十三日には、残った増右衛門らが吟味を受けています。


                   (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)

信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅰ

尾張国(現在の愛知県)の名古屋とその近在でも、民衆による弘教が進みました。
幕末に近い文政五年(1822年)ごろ、江戸の目黒に住む信徒・永瀬清十郎が、二年にわたって大石寺の末寺のない尾張地方へ行って弘教したのが、その発端となっています。



清十郎は若いころは日蓮宗一致派(身延派)の信徒でしたが、後に大石寺に帰伏し、東北地方から尾張まで、各地へ行って弘教に励んでいます。法論も巧みで、天保年間(1830年)ごろに、日蓮宗一致派の有力な信徒と法論して打ち破った「砂村問答」で有名です。



清十郎によって最初に入信した名古屋の高崎たよ女が、弘教に立ち上がって女性だけの「六日講」を結成し、文政七年には尾張徳川藩に仕えていた息子の高崎勝次も立ち上がって「本因妙講」を結成するなど、急速に信徒が増加していきました。



清十郎は、名古屋の北在(現在の小牧市・犬山市・春日井市など)の各地へも弘教を進め、
船橋儀左衛門、平松増右衛門、木全右京、岩田利蔵などが入信しています。いずれも農民か町民の身分でしたが、学識もあり、もと日蓮宗の信者だったために、教学の素養もあった彼らが、正法に目覚めて弘教に励んだので、この地方にも多くの信徒が生まれていきました。



そして日蓮宗一致派(身延派)や顕本法華宗、八品派などの僧俗と各地で法論を戦わせ、いたるところで打ち破ったので、日蓮宗各派は激しく怨み憎んで、寺社奉行に訴えて弾圧を加えたのです。そのため迫害は前後四回に及び、五十年にもわたりました。



最初は文永八年(1825年)から翌年にかけて、藩の役人が名古屋北在の信徒の家へ押しかけ、
御本尊を取り上げ、家族を打ったり蹴ったりして迫害を加える、という事件がおきました。
難の中心となったのは船橋儀左衛門等でした。


                (河合一氏著 暗黒の富士宗門より一部抜粋)