極悪と戦えば極善となる

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正宗と学会の教学の違い

今法華講員さんとのやり取りで「日蓮正宗教学」を学んでいるのだが、うーん、正宗教学がどうも自分の心に響かない。



正宗教学・・・凡夫が仏と同じになるというのは大謗法
       凡夫はひたすら大聖人の魂が入っているとされる戒壇本尊への随順
       


学会教学・・・日蓮大聖人と同じく仏の生命が凡夫にもそなわっている。
       我々凡夫が自己に内在している仏の生命を引き出すカギは唱題行



「お題目を唱えて、我々の仏界湧現、仏界湧現っていうんだ。これはまさしく大謗法だよ」
                  (平成6年8月 全国教師指導会 阿部日顕)


「そんな簡単にね、我々凡夫が、仏界が現れたり悟ったりできるんだったら、末法の凡夫はみんな仏になってんだよ」 (同)



「観心本尊抄」で仏の「唯一大事因縁」(ゆいいちだいじいんねん 仏がこの世に出現した目的 御書全P242)は「欲令衆生開仏知見」(衆生の仏の智慧を開かせること 御書全P244)とあるが、「正宗教学」のように、我々凡夫がお題目を唱えようが仏道修行に励もうが、いつまでたっても「仏界を開くことができない」「仏の智慧には到達できない」というのであれば、いったい何のための信仰なのだろう。


【欲令衆生開仏知見】(よくりょうしゅじょうかいぶっちけん)とは


読み下しは「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」(御書全 P240)
法華経第一方便品の文で、開示悟入の四仏知見のうち、開仏知見の文(法華経P121)
仏知見(ぶっちけん)とは、仏の智慧を開かせること



【唯一大事因縁】(ゆいいちだいじいんねん)とは


法華経方便品第二の文。諸仏がこの世に出現した目的は、衆生(九界)に内在している仏知見を開かせ、示し、悟らせ、そして仏知見の道に入らせるという一大事の故であるとの意味

日寛上人の造仏読誦への破折Ⅱ

<造仏論の破折> (「末法相応抄」下巻)


①熟脱の教主なる故


釈尊は「熟脱(様々な教えを説いて、遥か長い時間をかけて、衆生を徐々に導いていって徳脱させる)の教主」であるから、下種の仏を教主とする末法の時代には釈尊は本尊とすることができない



②三徳の縁浅き故


正法時代、像法時代の衆生は、釈尊から下種を受け善根を積んでいる「本已有善」の衆生だが、末法の衆生は釈尊から下種を受けていない、「本未有善」の衆生である。釈尊とは縁のない衆生が釈尊仏像を本尊とすることはできない


③人法勝劣の故


釈尊は『法』(法華経の題目)を師として成仏した仏であり、法に比べれば劣り、末法の本尊には出来ない。釈尊の仏法では、「『法』が『能生』(あらゆるものを生み出していく根源)の師」、「『仏』は『所生』(そこから生み出されてくる一切)の師」という勝劣がある。末法の本尊は人と法が一体の本尊でなくてはならないから、釈尊を本尊とすることはできない


『問うて云わく然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり』(本尊問答抄 全・P366)



要法寺19世・日辰は、大聖人御在世中に、富木常忍、四条金吾夫妻が釈迦像をつくったことをあげて、釈迦の仏像をつくることの根拠にするが、大聖人門下の中ではこの三名だけで、大聖人が本尊として授与したのは文字曼荼羅だけであり、釈迦の像をつくることを積極的に勧めた事例はない。それに対して日寛上人は、


「本尊にあらずといえども、これを称賛する。略して三意有り。一にはなおこれ一宗弘通の初めなり。この故に用捨時宜に随うか。二には日本国中一同に阿弥陀仏をもって本尊となす。しかるに彼の人々、たまたま釈尊を造立す。あに称賛せざらんや。三には吾が祖の観見の前には一体仏の当体全くこれ一念三千即自受用心の本仏の故なり」(六巻抄P172)


と述べられている。


一 一宗弘通の初めであり、まだ種脱相対の深い原理がわからないため、大聖人の本意では
  ないことも容認された


二 日本国中は阿弥陀仏を本尊としている者が多く、権実雑乱の時代、権経である阿弥陀仏
  を捨てて、実教の釈尊を敬っているという点では称賛できる


三 大聖人のご境涯からみれば、釈迦の一体仏も「一念三千即自受用心の本仏」である




また日寛上人は、日辰が造仏の論拠として、「観心本尊抄」「報恩抄」の文をあげたことにも言及。


【其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十四年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏を有さず、末法に来入して始めて此の仏像を出現せしむ可きか】(全・P247~248)


ここでの「観心本尊抄」の御文は御本尊の相貎を述べられたものである。
「本師」とは、日蓮大聖人のこと。「宝塔」見宝塔品であらわれる多宝の塔。南無妙法蓮華経のことも指す。大聖人は「虚空会の儀式」を借りて曼荼羅本尊をあらわされた。ここでは釈迦仏や多宝仏の二仏は脇士としてあらわされている。「寿量の仏」とは、曼荼羅本尊(法本尊)であり、日蓮大聖人(人本尊)であるとする。法と人とが一体となっている。「此の仏像」とは、絵像・木像ではなく生身の仏であるので「出現」というと解釈されている。



『答えて云く一には日本乃至一閻浮提・一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし、所謂宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行菩薩等の四菩薩脇士となるべし』(全・P328)


日辰は、この「報恩抄」の「本門の教主釈尊を本尊とすべし」の御文を文上読みし、釈尊を本尊とするとした。しかし日寛上人は、ここで述べられている「本門の教主釈尊」とは「文底本因妙の教主釈尊」=日蓮大聖人のことであるとされた。もし報恩抄の御文である「本門の教主釈尊」が「文上本門本果妙の釈尊」=釈尊のことを指しているとしたら、脇士となる「宝塔の内の釈迦」は別の仏とせねばならない。「宝塔の内の釈迦多宝・外の諸仏・並に上行菩薩等の四菩薩なるべし」の文は曼荼羅本尊を示したものであり、大聖人(本門の教主釈尊)と曼荼羅本尊が一体であると解釈されている。
                          
釈迦ー本果ー色相荘厳ー垂迹ー化他ー人法勝劣ー脱益
日蓮ー本因ー名字凡夫ー本地ー自行ー人法体一ー下種益


             参考文献 須田晴夫氏著 『日興門流と創価学会』

創価ダメ出し管理人さんへ

「ランさんが本尊義に答えられず遁走」


ごめんなさいね、ベソかいて逃げちゃって。
「教学全然知らないんで」(笑)


でも、あなた様も「日精の造仏の件」で創価カテでブログされている方に、
フルボッコにされてましたね(笑)


法論?私のような教学がない者が法論になるかわかりませんが(笑)
日精が何故「造仏読誦」したかをコメントに書いてください。