極悪と戦えば極善となる

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寺信心で魔が起こらないのは正法ではないから

「さらば従来の日蓮正宗の信者の中に『誰か三障四魔競へる人あるや』と問はねばなるまい。そして魔が起らないで人を指導してゐるのは『悪道に人をつかはす獄卒』ではないか」
                            (牧口常三郎全集 第十巻)



学会が宗門と袂をわかつ前、私はお寺にいくのが割と好きだったので、


『組織につかず、お寺に言ってお坊さんの話を聞くだけの信心は楽そうでいいな』


と口にしたことがあった。それを聞いた父は、


「寺信心じゃあ、いけん。寺は、やれ、選挙じゃぁ、会合に参加せえじゃあ、折伏しろじゃあ、言わんけえ、楽でええよな、と思うかもしれん。でも、楽な仏道修行なんてないんじゃ。」


と私をたしなめた。この時の父の言葉の意味がわかるようになったのは、随分時間がたってからだった。



お寺で高等部員会の内容を打ち合わせをしていたある日、法華講員とおぼしきご婦人が、こんなことを言って声をかけてきたことがあった。


「あなたたち、そんなに頑張らなくていいのよ。人に勧めなくたって、自分がしっかり拝んでばいいの。学会の人たちは熱心すぎる」


自分だけ題目をあげて御講を聞きにいくのが修行なら難も魔もおこらないだろうから、確かに楽だろう。しかし、成仏するのは生易しいことではない。『仏になる道は必ず身命をすつるほどの事のありてこそ仏になり候らめ』(佐渡御勘気抄 P891)とあるように、“”命がけ“”で仏道修行してこそ仏になれるのである。



『此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず』
                             (兄弟抄 P1087)