極悪と戦えば極善となる

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謗法を責め抜くことこそ成仏の直道

聖愚問答抄P496


「其の仏法の偉目を見ながら我もせめず国主にも訴へずは教へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり」


謗法の者を見ながら自分も責めず、国主にも訴えようとしない者は仏弟子にはあらずと経文には説かれている。



涅槃経に云く


「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵責し駆遣し拳処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し拳処せば是れ我が弟子真の声聞なり」


もし仏法者がいて、法を破る者をみていて、それを放置し、責めようとせず、追放もせず、はっきり罪をあげて処断しないのであれば、この人は仏法の中の敵である。よく責め、追放し、罪を指摘して処断してこそ真の仏弟子である。



この涅槃経の「若し善比丘あつて・・・」の文は御書のいたるところで見られる。



「されば仏法中怨の責を免れんとて・かやうに諸人に悪(にく)まるれども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす、汝実に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ」



大聖人は仏法の中の怨、「仏法中怨」の責めを免れるために、たとえ人々に憎まれようとも謗法を責めていかれたと仰せられている。



謗法を責め抜いていくことは、成仏の直道なのである。



「謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」
曽谷殿御返事P1056

真の先祖供養とは

お盆の由来は、釈迦の十大弟子のひとりで神通第一といわれた目連が、
自分の母親が「慳貪の科」によって、死後、餓鬼道に堕ちているのを見て、神通力で救おうとするのだが上手くいかず、釈尊に救いを求めたところ「あなたの母は罪が深く、あなた一人の力では救っていけない。十方の聖僧に供養せよ」と言われ、その通りにして母親を救っていったとの「盂蘭盆経」の逸話からきている。


しかしこの盂蘭盆経の逸話を利用し、
信者の供養を貪っていた堕落した既成仏教の僧らに対して大聖人は、



「いまの僧等の二百五十界は名計りにて事をかい(戒)によせて人をたぼらかし一分の神通もなし、大石の天にのぼらんと・せんがごとし、智慧は牛にるいし羊にことならず、たとい千万人を・あつめたりとも父母の一苦すくうべしや」
                         盂蘭盆御書 P1429


四条金吾御書においては「食法がき」「狗犬の僧」「未来には牛頭 馬頭」等々、
手厳しい破折をくわえている。


「まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる」P1486


どんなに真心こめて供養しても、供養した相手が悪ければ悪道におちる、と。



大聖人は「自身仏にならずしては父母だにも救いがたし・いわうや他人をや」、
父母を救っていくには、まず自分が仏になることが大切であると断言されている。



自分自身が仏道修行に励み、成仏することがそのまま父母や先祖のへの供養となる。



「悪の中の大悪は我が身に其の苦をうくるのみならず子と孫と末へ末代までもかかり候なりけり、善の中の大善も又かくのごとし、目連尊者が法華経を信じまいらせし大善は我が身仏になるのみならず父母仏になり給う、上七代・下七代・上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給う」
                          盂蘭盆御書 P1430

出家功徳御書についての考察

前回に引き続き、「出家功徳御書」について


②【されば其の身は無智無行にもあれ髪をそり袈裟をかくる形には天魔も恐をなすと見えたり】 P1251


無智であれ、無行であれ髪を剃って袈裟をかける形(姿)には天魔も恐れをなす、というもの。



しかし「盂蘭盆御書」P1428 では、


「いまの僧等の二百五十戒は名計りて事を戒によせて人をたぼらかし一分の神通もなし」
                                  


と今の""戒をたもっている僧""といっても名前ばかりで、その戒律に事をよせて人をたぼらかしてほんの少しも力などない、と「形だけの僧侶」を痛烈に破折されている。これも②とは真逆。



大聖人は、富木常忍が出家を願ったときも、金吾同様に
""現実逃避のための出家""を思いとどめさせている。
常忍は、主君の死、母の死、妻の病気など悲しい出来事が続いて世の無常を感じ、出家して大聖人の側で仏道修行したいと願いでる。それに対する返事が「四信五品抄」とされ、大聖人は形の上で戒をたもつことは必要ないと諭されている。


出家功徳御書では僧侶という「形」にやたらとこだわっているが、「心こそ大切」と門下に呼びかけられた御指導とは、正反対。


仏道修行にも励まず、学ぼうとせず「袈裟をかけただけで天魔も恐れをなす」など堕落している坊主にとってこれほど都合のいい御文はない。


「出家功徳御書」の作者?は、
「大集経」などの文を用いて自分たち出家にとって都合のよい言葉を羅列し、それをあたかも大聖人があらわされたように偽装し、権威化を図ったのではないだろうか。



【偽書を造つて御書と号し本迹一致の修行を致す者は師子身中の虫と心得う可き事】
                                (日興遺誡置文)