極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

山崎に血脈相承を証明してもらうしかなかった阿部日顕

山崎は阿部日顕が登座直後、細井日達管長同様にたらしこもうと接近を図る。
しかし、学会側から山崎の真の姿が伝わり、目論見は失敗。


「あんたは、大ウソつきだ!」


と罵倒され、本山出入り禁止に。



頭にきた山崎は、細井日達管長のお耳役だった浜中和道に電話をかけ、
まくしたてている。


「あの野郎が猊下なものか。和道さんも知っているでしょう。日達上人が亡くなる前には、あいつには相承する気がなかったってことは」


「あの野郎は、俺がそのことを知らないと思って、法主面しやがって。今に見てろって言うんだ」



この血脈相承の問題で、山崎は「週刊文春」に登場し、


【二つの疑惑 日達上人の遷化と阿部日顕の相伝】


というタイトルの手記を載せている。


「御相伝そのものは、なされていた形がどこにも見当たらない。見た人は誰もいなかった」



""大ウソつきだ""と怒鳴られたことがよほど悔しかったのか、


「宗内で一、二を争う遊とう児」
「まことに信仰心のうすい、功利主義の権化」
「野心家」
「ゼニゲバ」
「独裁者」


等々、怒りのままに日顕罵倒の記事を書いていた。



しかし創価学会を倒すために、後に日顕と手を結ぶ路線に方向転換する。
山崎は、創価学会恐喝事件で刑務所に入る直前、浜中に以下このような発言をしている。



「これは和道さんだから言うんだけどね。実はね、僕は阿部さんの血脈相承を認めちゃったんだよ」


「え?!」


「だからね、僕は学会を倒すために、阿部の懐に飛び込んだんだよ。今は阿部さんの猊座の権威が必要なんだよ。・・(略) 正信会のために、共通の敵の学会と戦うために阿部さんと連携したんだよ。・・(略) 阿部さんが""頼むから、俺に血脈相承があったことを認めてくれ""って言ってきたんだよ」


「だって阿部さんに相承がないのは事実じゃない」


「それはそうかもしれないけどさ、相承があってもなくても、もう猊下としての既成事実が出来上がっているんだから、しょうがないじゃない。今、それを論じるんじゃなくて、どうすれば池田を潰せるかってことを考えるのが先でしょう」



血脈相承のことで後ろめたさがあった日顕は、弱みを握られている山崎に""相承があった""と公の場で証明してもらうしかなかった。「あの時は、ウソつきと言って悪かった。かんべんしてください」と山崎に謝罪した。山崎は高笑いしながら浜中にこう言った。



「阿部さんが謝ってきたよ。<あんたはウソつきだっていって、申し訳なかった>ってね。今さら、僕のすごさがわかったんだよ、あの男にもね。僕にひれ伏したんだよ」





                       (浜中和道 回想録より一部抜粋)

勤行唱題を怠っていた山崎正友

山崎は、最初から野心で動いていたわけではなく、
弁護士になりたてのころは真面目に働いていたようだ。


晴れて弁護士になったときは、



「民衆のために戦いぬく立派な法律家に成長し」


「ほんとうに困っている人、弱っている人の味方になって、""金がなければ弁護士をやとえない""という考え方を打破していきたいと思います」



と決意を語っている。



しかし、このころ既に彼の信心の姿勢に疑問を持つ人もいた。
以下、岡山時代に一緒に活動した人たちの証言。


「唱題を根本にコツコツやるタイプじゃなかったですね」


「勤行、唱題に励む様子は一切なかった」


「熱心に拝んどった姿がどうしても彷彿としてこないんです。見たことがねえ」



山崎は、勤行・唱題という基本を怠っていたために、悪縁に染まり、いとも簡単に第六天の魔王の生命に支配されてしまったのだろう。


弁護士として宗門に関わるようになり、そして宗門僧の無知さ、レベルの低さ、世間知らずさを目の当りにし、それまでの


""厳しい修行にたえて僧侶となった立派な人たち""


という概念はもろくも崩れ去り、その瞬間、彼にとって信仰というものは何の意味もなさないものとなった。そして次第に宗門僧を自分の欲望を果たすための道具とみなすようになったのだろう。


山崎は、岡山時代の男子部の後輩たった中川氏にこのように話している。



「坊主は悪い奴らだ。坊主の手をひねるのは赤子の手をひねるよりみやしい(カンタンだ)」

なぜ山崎は宗門を自由に操れたのか

何故、山崎正友は宗門中枢に上手く取り入り、意のままに操ることができたのか。
それは、彼が宗門僧の特性を熟知していたからだった。


山崎は、前記事で述べた「正本堂の土地をめぐる告発事件」で宗門の高僧たちや細井日達管長とも直接、話す機会があった。



「坊さんは、しょせん金よ。プライドとかなんとか言っているが、金を与えれば、どんないみじき方でも、すぐコロリだよ」


「坊さんは正本堂などという建物より現金がよかったんじゃないかな」


「日達上人は、創価学会だけが大きくなると困るんだよ。妙信講(顕正会)を創価学会のあて馬にしようというのが本音だよ。学会が予想外に大きくなったんで、恐くなったんだよ。二十年前は食い詰めていたのに感謝もせず、坊さんってのはそんなもんだよ」


等々、宗門僧について分析している。




山崎は、日達法主のまえでは平身低頭を装い、口先三寸、心にもないお世辞でたらしこんでいったが、陰では「上野村の和尚さん」といって蔑んでいた。



「馬子にも衣装というが、村の和尚さんじゃ着せるものがない」


「尊い人は、御簾の後ろに隠れていただいているのが一番だ。出てこられると信者が失望する」


などと当時の後輩である学会員に本音を吐露していた。



後年、山崎は阿部日顕と結託して学会攻撃に狂奔するが、わがままで短気、世間知らずな日顕を利用しただけで、""御法主上人""に対する尊崇の念など、これっぽっちも抱いていなかったのである。