極悪と戦えば極善となる

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信念を貫き牢獄で殉教した竹内八右衛門

明和七年(1770年)末、前田藩は、また領内での富士大石寺の信仰を禁止する法令を出し、信徒の中心者と見られた西田丈右衛門、竹内八右衛門ほか、七、八人が閉門(門を閉じて出入りできない刑)などの実刑にあっています。その多くは、陪臣(前田家の家臣の家来)
か足軽の身分の人たちでした。



三年後に閉門が許されましたが、その間に、三十年もの間に弘教に励み、二つの講を結成して多くの信徒を育てた西田丈右衛門が病死しています。



さらに、天明六年(1786年)三月には、竹内八右衛門(足軽小頭)が再び役人に呼び出され、信仰を捨てるように迫られて拒んだため、投獄されています。不惜身命の信心を貫いた竹内八右衛門は、同年四月二十九日、老齢のため牢内で亡くなりました。その葬儀には、数百人の信徒が集まって、尊い殉難の生涯を忍んだ、と伝えられています。



池田先生は、「当時の金沢の信徒たちは、僧侶が半ば放棄してしまった『未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致すべきこと』(御書全P1618)との日興上人の御遺誡をそのまま実践したのである」(1992・12・17)と話しています。


                (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)

金沢法難

加賀国金沢(現在の石川県金沢市)に富士門流の信仰が弘まったのは、五代藩主・前田綱紀の代に、江戸藩邸の近くにあった常在寺で正法を聞いた藩士の中から入信したものが出て、金沢へ帰って弘教したことから始まったとされています。


寛文三年(1726年)ごろ、福原次郎左衛門らが最初に入信して弘教に励み、主に下級武士の間に入信者が続出しましたが、正式には改宗ができないため、内得信仰をするしかなかったのです。


享保十一年(1726年)に、金沢にあった日蓮宗慈雲寺の僧・了妙が、遊学して研究した結果、大石寺派に改宗して、細草談林に入ったことが問題になりました。それを契機として、前田藩内での富士門流の信仰が禁止されてしまったのです。


前田家の領内(加賀、能登、越中の三か国)に富士門流がなかったので、前田藩では「禁制の邪宗とまぎらわしく、宗門改めに不都合である」として、信仰を禁止する触れを出しています。


それは、「大石寺派は幕府から禁制されている不受不施派に紛らわしい」などと中傷した、日蓮宗身延派の僧侶からの答申が出ていたためでした。


日蓮大聖人は


【此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず】
                            (兄弟抄御書全P1087)


と教えている通りなのです。


そのため日詳法主は、翌享保十二年に、前田藩に対して領内に一末寺を建立したいと願い出ましたが、却下されています。その願書の中に「数十年来、累代の信受数千人」とあり、
当時、すでに数千人に及ぶ信徒がいたことがわかります。


しかし、幕府の寺社奉行に訴えることも出来たのに、宗門は願いでませんんでした。
その理由を、堀日亨上人は「自山(大石寺)の危険を案ずる」ためと「金沢の多数の信徒が重刑に処せられることを心配したためであろう」と指摘しています。


                   (河合一氏著 暗黒の富士宗門史より一部抜粋)

信徒が僧侶の邪義を打ち破った尾張問答Ⅲ

その後、十月二十五日、十一月二日、十一月十日の三回にわたって、増右衛門、利蔵、右京の三人が、法華寺において、寺社奉行所の役人の監視のもとに、日蓮宗各派の役寺の高僧七人と対論しています。



寺社奉行としては、役寺(藩からの寺院に関する法令を伝達する役目の寺)に命じて三人を教化・改宗させようとしたものでしたが、利蔵を中心にした三人は、高僧たちの邪義を一つ一つ打ち破ったので、教化するはずの僧侶が、信徒側から誤りを指摘され、しばしば詰まって閉口したり、他の僧が信徒側の正義を認める珍妙なものになってしまいました。



大聖人から日興上人の二箇相承を認めさせ、身延の地頭・波木井実長の謗法を認めさせるなど、信徒側が大勝利したのです。これを「尾張問答」といいます。



堀日亨上人は、「問答は富士信徒の勝利にして役寺側の悲惨の敗北で能化所化(教化する側とされる側)全く位置を転道(逆転)したること三人は面目を公場に施し七寺は恥辱を不朽(永遠)に晒すのみならず富士信仰は少しも邪義にあらず却って日蓮宗中の正統正義なることを公吏(役人)に聞かしむるに帰した」(尾張法難史)と称賛しています。