極悪と戦えば極善となる

 「破邪顕正」謗法呵責をメインに記事を綴っていきます。なお、コメント欄に初投稿する場合は、軽く自己紹介をするようにお願いします。管理人が非常識、悪質なコメントと判断した場合、削除させていただくこともありますのでご了承ください。

執着するのをやめましょう

「創価に罵詈雑言を言ったりするのはスッキリしていますので卒業しています」


記事内容からして、まだスッキリされていないように思われます。
創価学会批判しないと生きていけないのでしょうか。
「創価」の二文字から離れられないのでしょうか。
ご自身で判断されて宗門にいかれ、「創価学会から卒業」したのであれば、
もう創価に執着する必要はないでしょう。


創価学会が正しいとの絶対の確信を持って信心されている方は、あなた様に何をどう言われようとも、揺るがないと思いますよ。話は平行線です。


時間はどんどん過ぎていきます。その貴重な時間を創価学会批判に費やさず、ボランティアするなど世の中に貢献することに費やしたらいかがですか。


私の親友は学会員ではありませんが、率先して被災地でボランティア活動などして、人のために動いていますよ。そして地域の方に喜ばれています。私自身、微力ではありますが、音楽療法で心を癒すボランティアをしたり、公明党の町議会議員と共に地域のために動いています。


「中務三郎左衛門尉は主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」
                      (崇峻天皇御書 御書全P1173)


日蓮正宗の正しさを伝えたいと思うのなら、姑息な方法で創価批判に明け暮れず、
「さすが、日蓮正宗の人は立派だ、このような人になりたい」と言われるようにご自身が境涯革命され、創価学会員からも『敵ながら天晴れ』と言われるようになったらよいのではないですか。

歪んだ眼にはすべて歪んで映る

一時期は華々しく活躍していても、退転して、学会に反旗を翻す人もいました。そうした人をつぶさにみていくと、決まって、わがままであり、名聞名利、独善、虚栄心が強いなどの共通項があります。


結局は、自分自身が根本であり、信心も、組織も、すべて自分のために利用してきたにすぎない。いかに上手に立ち回っていても、やがては、その本性が暴かれてしまうのが、妙法の厳しさであり、信心の世界です。


私は、ずいぶん、人から騙されてきました。利用され、陥れられもしました。
弟子を名乗る者のなかにも、そうした人間がいることを知っていました。『あの男は下心があるから早く遠ざけたほうがよい』と言ってくる人もいました。それでも私は寛大に接し、包容してきた。心根も、魂胆もわかったうえで、信心に目覚めさせようと、根気づよく、
対話しました。また、幾度となく、厳しく、その本質を指摘し、指導も重ねました。


なぜかー騙されても、騙されても、弟子を信じ、その更生に、全力を注ぎつくすのが、師匠であるからです。それが、私の心です。


しかし、悪の本性を露わにして、仏子である同志を苦しめ、学会を攪乱し、広宣流布を破壊するならば、それは、もはや仏敵です。徹底して戦うしかない。そこに躊躇があってはなりません。


人を陥れようとした人間ほど、自分にやましいことがある。自らの悪を隠すために、躍起になって人を攻撃するーそれが、三十数年間にわたる信仰生活の実感です。だが、すべては、因果の理法という生命の法則によって裁かれていきます。因果は厳然です。その確信があってこそ仏法者です。


私どもは、広宣流布のため、世界の平和と人びとの幸福のために、献身しぬいてきました。しかし、悪僧や、それにたぶらかれた人たちは、この厳たる事実を認識することができない。


大聖人は、色相荘厳の釈迦仏を、悪人がどう見ていたかを示され、『或は悪人はすみ(炭)とみる、或は悪人ははい(灰)とみる、或は悪人はかたき(敵)とみる』(御書全P1303)と言われている。


歪んだ眼には、すべて歪んで映る。嫉妬と瞋恚と偏見にねじ曲がった心には、学会の真実を映しだすことはできない。ゆえに彼らは、学会を謗法呼ばわりしてきたんです。悪に憎まれることは、正義の証です。


                 (新・人間革命30巻下 勝ち鬨の章より一部抜粋)

創価アンチブロガー法華講員達の共通点

・とにかく「戒壇本尊」へのおすがり信仰


・自分をみつめ、自己変革しようとしない


・魔がおこらないので、「創価より正宗が正しい」と錯覚している


・戸田先生や池田先生の昔の指導を持ち出し「戒壇本尊の優位性」をたもとうとする


・十界互具・一念三千の法理の知識はあるが教条的にとらえていて、生命でわかっていない


・学会は戒壇本尊の否定はしていないのに、「受持の対象から外した」とわめいている


・教学的知識はあるが、才におぼれ、傲慢で人を見くだす生命が強い


・創価学会批判しないと自己の存在意義を見出せない