極悪と戦えば極善となる

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邪心の人は淘汰されていく創価学会

以下 新人間革命 第2巻 勇舞より


 最初に支部婦人部長の候補にあがっていた地区担当員の周辺から、石山照代の人事に不満がでていることがわかった。しかも、その地区担当員は、表面では平静を装いながら、自分と親しいメンバーを扇動していて、石山を批判するように仕向けていることがわかった。あまりにも愚かしく、情けない話である。


 学会の役職は名誉職ではなく責任職である。会員への奉仕に徹し、広宣流布の責任を果たし切ることが最大の任務だ。したがって大きな責任をもつ立場になればなるほど、""自分""を捨てて、法のため、広布のため、同志のために尽くし抜こうとの決定した一念がなければその任を全うすることはできない。


 自分が支部の婦人部長になれないことで不満をいだき、陰で人を非難したりすること自体、広宣流布よりも""自分""が中心であることを裏づけている。それは、学会の幹部として不適格であることの証明といってよい。いかなる理由にせよ、広宣流布の使命に生きる同志を嫉妬し、恨み、憎む罪はあまりにも重い。


 -信心によって病を克服した体験をもつ婦人が、なぜ周囲をも巻き込み、団結を破壊しようとするのか。名聞名利と慢心に蝕まれていることは確かだが、どうしてそれに気がつかないのか。その一念の狂いは、何ゆえ生じたのか。


 日蓮大聖人は、『若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず』P383
と仰せである。つまり自分自身が一念三千の当体であり、幸福も不幸も、その原因は自己の生命にあると自覚することから仏法は始まる。しかし、周囲の人を嫉妬するというのは、自分の幸・不幸の原因を他人に見いだし、""己心の外""に法を求めているからにほかならない。


 そうした考えに陥れば、状況が変化するたびに一喜一憂し、困難や苦しみにあえば、周囲を恨み、憎むことになってしまう。そこには自分を見つめることも反省もない。ゆえに成長も人間革命もなく、結局は自分を不幸にしてしまうことになる。


 また組織の中心者や幹部といっても、人間である限り、長所もあれば短所もある。未熟な面が目立つこともあろう。問題は、そこで自分がどうするかだ。批判して終わるのか、助け、補うかである。中心者を陰で黙々と守り支えてこそ、異体同心の信心といえる。


 この時、組織を攪乱した婦人は、一時期は、先輩の指導によって立ち直り、幹部として活動していたが、後に夫妻で退転、反逆し、自ら学会を去っていった。邪心の人は淘汰され、離反していかざるをえないところに、仏法の厳しさと、学会の正義と清らかさの証明がある。



 
 

戒壇の意義は ""防非止悪""


 相変わらず、ひとつ覚えのように日蓮正宗の連中は「学会は弘安2年の大御本尊を受持の対象からはずした」と、わめいているが、そもそも戒壇の意義は『防非止悪』(自らが非法・悪法をとどめる信心を誓い、社会が非道・悪道に陥っていくのを止める)



 自らが非法・悪法をとどめてこそ、『事の戒法』である。大聖人は有徳王・覚徳比丘の不惜身命の戦いを戒壇建立の条件として掲げられている。



 しかし、日蓮正宗僧侶は「不惜身命」の戦いをするどころか、前法主阿部日顕自ら禅寺に墓をたてるなどの謗法をおかし、開眼法要を行い、破折もしないでそのあと酒宴。信徒の供養を貪り、遊戯雑談にふけり、化儀をふりまわして信徒を睥睨。



『外見のみ謗法厳戒を立て内部には謗法容認の非行あらんことは物怪(もっけ)なり』
                              (日亨上人)


まさに、物怪、妖怪の所業。


 「禅天魔」と大聖人が喝破されている通り、阿部日顕の心身には、禅宗の害毒が深く深く染み込んでいたのであろう。


 天台宗比叡山延暦寺が真言や禅などに染まり『天魔の山』と化していることを大聖人は
「立正観抄」で厳しく呵責されている。


「当世の天台家の人人・其の名を天台山に借ると雖も所学の法門は達磨の僻見と善無畏の妄語とに依ると云う事」p532


「当世の学者此の意を得ざるが故に天台己証の妙法を習い失いて止観は法華経に勝り禅宗は止観に勝れたりと思いて法華経を捨てて止観に付き止観を捨てて禅宗に付くなり」
「爰に知んぬ修多羅の仏教は月を指す指なり禅の一法のみ独妙なり之を観ずれば見性得達するなりと云う大謗法の天魔の所為を信ずる故なり」P533


 大石寺はもはや「天魔の山」と化している。このような魔の住処には、いかに弘安2年御図顕の大御本尊がご安置されていようと参詣する必要はない。



"こんなに尽くしてやったのに" 反逆者の逆恨みの心理


 仏道修行は「してやって」いるのではなくて、「させていただいている」のである。
「してやっている」と思うこと自体、仏法者として謙虚な心がまったくない。
要するに「自分の一生成仏のため、人間革命のため」という原点を忘れているから、
「あの人が悪い、この人が悪い、幹部が悪い。自分はその被害者だ」と思う。これこそ、己心の外に法を求めてしまっている何よりの証拠であろう。そういうのを『外道』という。


仏道修行は『心こそ大切』なのである。
喜んでするところに功徳もある。


 創価学会は、人を信じることからはじまり、善意で成り立つ信仰の組織だ。
何も理由がないのに、役職を解任したり、除名処分などにはしないのである。



 金銭問題をおこして組織をかく乱し、同志に多大な迷惑をかけ、役職を解任された夫婦の話が『新人間革命第8巻 清流の章』に載ってある。


役職を解任された""沼山広治""は、副理事長宅に乗り込み、こう吐き捨てた。


「俺はな、これまでずいぶん学会には尽くしてきたんだ !それなのにクビにしやがって!」
「解任については、納得したことではないか・・・」
「この野郎 !」
沼山は、理事長の胸倉をつかんで、殴打した。
「こんなことをすれば、取り返しのつかないことになるぞ !」
「うるせえ !」
沼山は吐き捨てるように言い、部屋を出て行った。
副理事長はがっくりと肩を落とした。山本会長の心もわからず、反省もない、沼山という人間に対する落胆であった。沼山夫婦の処遇については、再度、審議され、学会除名に決定した。(P268)



 解任、除名にされた原因が「自分にある」と思わず、「人のせい」だと思う。
逆恨み、とはこういうことを言うのであろう。